「異世界は衰退しました3」


      



 呆けたようになりながらも沖は、状況にまるでそぐわないものを手に下げていることに気付いた。
 土産に買ったショートケーキの箱だ。
 悄然たる面持ちで愛弟子に差し出す。
「ケーキだ、アイリン。いろいろあって渡しそこねてた。おまえのアパートを訪ねたら、一緒に食べようと思ってたが」
「ありがとう」
 アイリンは言葉だけで気持ちを伝えた。
「でも、今となっては貴重な食糧です。先生が持っててください」
「そんなに何にもないところか」
「それはもう……コンビニも、スーパーも、宅配も、電気も、ガスも、水道も、電車も、バスも、タクシーも、電話も、テレビも、インターネットも……とにかく、何にもありません」
「よくわかった」

「それじゃ、先生。わたし、また来ますから」
 アイリンは沖にくるりと背を向けた。
「どこへ行く?」
「異世界に戻ります」
「異世界って……つまり、今までいた現実世界だろ?」
「わたしにとっては異世界」
「俺も戻してくれよ」
 アイリンは顔だけ振り返らせて、応答する。
「先生は知ってしまいました、わたしの正体を。ここにいたほうが安全です。わたしの仲間は過激なので、あちらだと何をされるかわかりません」
「ここも、安らげる場所には思えないけど」
「危険なものも存在しません」

「慣れれば住みやすいですよ。気温は適正、雨も降らず風も吹かず。何もないところなので、害虫もばい菌もいません。酸素など生体維持に必要なものは保たれる仕組みで」
「退屈だよ」
「今度、本でも持ってきます」
「読めないだろ、灯りもないのに」
「念じてください。見えてきます。この世界は何もないようだけど、そういうところは融通がきくんです」

「では」
 アイリンはふたたび、沖を置きっぱなしにして立ち去ろうとする。
「待て、アイリン。あんまり無責任だぞ」
 沖はアイリンにすがりつきたいほどだった。
「こんなところまで連れ出して、現地解散だって? 良くしてやった覚えもないが、ここまで仕返しされる真似をしたか?」
「先生は向こうの世界で、最低賃金で仕事を与えてくださいました。感謝しています」
「ボーナス出す気でいたんだ」
「わたしももらえなくて、残念です」
 アイリンは立ち止まり、振り返った。

「先生は、こんなところとおっしゃいましたけど。わたしにとっては生まれ故郷。以前は、とっても豊穣な世界だったんです。それはそれは美しい世界でした。メルヘンのようなではなく、本物のメルヘン。でも。今は、何もかも失われました。光も、色も、音も、命も……すべてが」
 心なしかアイリンは、涙ぐんでいるように思えた。
「どうして……こうなった?」
「あなたたちが……この世界から、良いものをみんな奪い取ってしまったの」



( 続く )




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