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そうだったのね、慰安婦問題!

いろんな風説入り乱れ、何がなにやらわからん感じの慰安婦問題。天才鳥類フォーゲル教授がこの問題の勘所を、人間の頭でもわかるよう解説したまとめです。

更新日: 2020年05月23日

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このような業者は軍の手足として使われたのであり、軍の命令によって動く「請負業者」だったのです。

この軍の「請負業者」と慰安婦として集められた女性たちの移送には軍用船や軍用トラックなどが使用され、移動するさいに必要な許可書の発行など軍はさまざまな便宜を図りました。

慰安所とする建物は軍が接収したものを業者に利用させ、建物がないような前線では簡単な小屋を各部隊で建てるなどしています。軍事物資から食料や寝具などを提供する場合もあります。性病検査は軍医が行なっていました。慰安所の利用規則・利用料金なども軍が決めていました。

元産経新聞の社長である鹿内信隆は、1938年頃に主計将校となる教育を陸軍経理学校で受け、そこで慰安所の開設の仕方を教わったと証言している。

そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出てくるまでの“持ち時間”が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければいけない(笑)。
料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。

桜田武、鹿内信隆『いま明かす戦後秘史 (上)』サンケイ出版 1983年 p40~p41

金銭的な境遇はというと。「慰安婦」一人につき、月あたり300円から1500円程度の売り上げがありはしたが、その5~6割は前借金の返済分として業者に渡さねばならず、他に毎月一律150円を徴収、更に食料や日用品を法外な値段で業者が売りつけるため、借金は容易に減らなかったそうな。

月1500円というのはもっとも稼いだ人で、平均の売り上げで一人当たり三百円強くらい。

実は、ビルマでの米軍調書の供述のほとんどが、慰安婦そのものではなく、慰安所の経営者(日本人)からの聞き取りだったという罠がある。

わかりにくい引用の仕方でごめん。リンク先の記事をすべて読めば、ずっと納得できると思う。

↓    ↓    ↓

「生活及び労働の状況」の中で、「欲しいものを購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった」とあります。これが、秦氏らの引用するところですが、一方、「報酬及び生活状態」の中では、「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥っていた」とあります。どちらが、本当でしょうか。実は、(2)を読めば、多少とも推察は可能なのです。

(2)は資料としてもう少し厳密です。他の尋問調書など、この種の多くの情報を基に米軍東南アジア翻訳尋問センターが9項目にわたる報告を作成したのですが、「正確を期すため十全の努力が払われている」と述べ、特に情報提供者を明示しています。

その第4項と第9項に、日本軍慰安所関係の記述があります。

特に、第9項は「前線地域の日本軍慰安所」と題され、情報提供者が民間人の慰安所経営者M739と明示されています。この人物は、(1)に出てくる慰安所の日本人経営者のことです。また、注として、この記述がM739及びレド捕虜収容所での20人の朝鮮人慰安婦に対する尋問、つまり(1)に基づくことが示されています。

それによれば、(1)の情報の主要な部分がこの日本人経営者の供述であることがわかります。ということは、経営者にとっては、罪を問われる危険もあり、自分に都合のよい供述も混じっている可能性もあるわけです。

また、前記、慰安婦の生活状況については「経営者は衣服、必需品、奢侈品を法外な値段で慰安婦に売って、余録を得た」とされ、「暮らし向きがよかった」は消えています。

(従軍慰安婦問題に関する自由主義史観からの批判を検証する)
http://nagaikazu.la.coocan.jp/2semi/shiraisi.html#2


(1) テキサス親父が都合のよい箇所だけ引用した、「日本人捕虜尋問報告・第49号」のこと。(1944年10月1日作成)
(2) 上の調書よりさらに広範で厳密な、「尋問報告題2号」のこと。(1944年11月30日作成)

つまり。小林よしのりが漫画で賛美したミッチナ慰安所の描写は、秦郁彦氏の「慰安婦が豊かで自由だった」という記述に拠っていて、実はその秦郁彦氏による記述の根拠はほとんど、楼閣の日本人経営者の供述にもとづくもの……

とどめの一撃ですね。ミッチナ調書の神通力、終了しました。

普通に考えればだ。戦時中(1944年)に敵軍に捕われた者が取り調べを受け、「女たちを借金で縛り、ノルマを課して兵の相手させ、稼ぎの多くを巻き上げた」などと語れるものだろうか。

ようするに「慰安婦の生活が良かった」と言いふらす人って。逮捕されたブラック企業の経営者が「うちの会社は高給優遇だった」と供述した箇所だけ信じさせるようなものなんですね。他の都合の悪い部分は伏せたまま。

先生。ビルマで解放された慰安婦たちがぜんぜん高給取りでも優待遇でもなかったのはよくわかりましたが。他の慰安所でもやっぱりそうだったのでしょうか?

慰安所の料金は「兵 1円50銭、下士官 3円、将校 5円」
(昭和13年当時)

兵士の給与が月10円程度
しかし、内地のサラリーマンの月給は100円くらいだから、むしろ兵士の給与が異常に低かったわけです。

兵士の給料というのは、住居費、食費、被服費が差し引かれたあとの小遣いという意味合いだったからです。軍人も自宅から通勤するサラリーマン的な位置、中尉くらいになると月給100円です。

客の90%は下級兵士だったわけですから「売り上げ」も知れています。一日10人としても 月300円くらいで、その多くは経営者の懐に入ったはずですから、「高給取り」のはずがありません。支払いは軍が勝手に発行する通貨「軍票」での支払いでしたから、戦後は紙くずになりました。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/addition/tips.html

兵士の月給10円というのは、軍隊での衣食住が差っ引かれたあとの小遣いみたいなもの……そうか。そもそも兵隊さんの給料のほうが異常に安かったんだ。

「将官並みの給与を得ていた」というからには、
さぞやお姫様のように大切にされたのじゃろうな。

「五人目くらいで下半身はしびれて感じなくなる 十人目くらいで意識がモーローとして洗浄するのもおっくうになる」

「なおりかけたところを何度も突かれるので いつまでたっても傷口がはれたままです」

出典ヤングジャンプ連載の石坂啓「安穏族」で従軍慰安婦の話が描かれた回より引用

ちなみにこの漫画が描かれたのは1980年代。

慰安婦の多くが騙されて連れてこられた、報酬は軍票で払われたのでいくら稼いでも敗戦で紙屑になった等は、当時から知られていたわけだ。

慰安婦の証言でも兵士の証言でも慰安婦は1日平均10-20人 くらいの接客をこなしていたようです。平時の内地での接客はひとりに十分時間をかけないと満足をしてもらえません。一方戦地ではあわただしくことをすまして数をこなさなければなりません。

(慰安所の)第一号である楊家宅陸軍娯楽所の場合をみると三畳弱の個室がずらり軒をつらねる長屋があり、その一つ一つに一人ずつ配属されていた。そこが寝起きする居室であり客である兵隊の相手をする場だった。

その数は、楊家宅の場合一日二十名前後だったというがはっきりしたことはわからない。後の"大東亜戦争"(太平洋戦争)のとき日本本土から四千五百キロ離れたラバウルに初めて従軍慰安婦が送られてきたときに、数百メートルの兵隊の行列ができたといわれている。慰安婦たちは寝っころがり兵隊の相手をしながらおむすびを食べていたという。

兵隊さんは列を作って並んでいるし、次の兵隊さんが来る前に自分の性器を綺麗にする暇もありませんでした。私たちは死ぬほどの痛みを感じていたのに。兵隊さんを何度絞め殺してやろうと思ったことか。頭がおかしくなりそうでした。

ほとんどすべての場合に女たちは「奉仕」にたいし支払いを受け、料金の代わりにチケットを集めることになっていたが、戦争が終わった時になんらかの「稼ぎ」を持っていた者はごく僅かであった。

こうして戦争が終われば自分や家族が自立するのに十分な貯えを持てるかもしれないというほんのささやかな慰めでさえ、日本軍の敗退後には無意味なものとなった。

出典国連「クマラスワミ報告」

なぜかといえば。石坂啓の漫画でも描かれたとおり、日本の敗戦で慰安婦らに代価として支給された軍票が紙くず同然になってしまったからだ。

わたしたちが死んだら、ジャングルに穴掘って、そこに放り込んでおしまいです。もちろん、家族への通知なんてありません。わたしは、この目で見たんです、オンナにとってはこの世の地獄を。

先の「ミッチナの慰安所」よりさらに酷い状況だったとわかるじゃろ。たしかにラバウルや他の場所での惨状と比べたら、ミッチナの慰安所でさえ「楽園」なのかもしれんな。

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