「大使の娘」
「これ、見たい。日本のアニメーションって世界最高なんでしょ?」 「いや、こいつは……言っておくけど、世界一くだらないアニメだよ」 主人公はピュー太という名の頭の足りない青い鳥。 人々に幸せを運ぶはずが、ドジばかり踏んでしまって、大勢の運命を奈落の底に突き落とす。とうとう激怒した人々から疫病神あつかいされ吊るし上げられるという。 しかしラスト。王様の前に引き出されたピュー太だが、美少女キャラの涙ながらの嘆願により恩赦をたまわる寸前までいく。 そこから、死刑か助命か二つの選択肢が示され、観客に手元のボタンで投票させ多数決による審判を下すというもの。 結末は二つ用意され、投票結果に応じてハッピーエンド版かビターエンド版に分かれる仕組み。 しかし、だ。 これまで、「助命」の結果が出るのを見たことがない。 この施設は無料なので休憩時によく利用していたが、話の流れがここに及ぶとみんな面白がって「死刑」のほうに投票するのがならわしだ。遠足で小学生が団体で来たときなど、子供らは口々に「死刑」「死刑」とわめきながら赤ボタンを押しまくり、それでピュー太の処刑が確定するや盛大な歓声があがったりする。 テレビ初放映時にネット投票をやったところ、ピュー太のあまりの阿呆っぷりに脱力した視聴者が「死ね」を連打する事態が発生、回線が落ちたといういわくまである(その夜、ピュー太はもちろん助からなかった)。 こんな調子で、ピュー太はいつも死刑になる定めなのだ。 助命されるバージョンはたしかに存在するというが、「除命」すなわち命をディスられて終わる場合がほとんど。 日本の観客って残酷なのだろうか。 余談だが。死刑バージョンでは、はねられたピュー太の首が奥のほうから観客めがけて飛んできて、大写しになったところで画面が静止、終わりになるという嫌味たっぷりな演出がされている。 そんなところも人気の秘密かもしれない。 ともあれ。 ぼくと彼女は、『脳天空っぽの鳥ピュー太』を最後まで見た。 上映が終わって出るときのアスタナは、しょげた感じだった。 「どうしてもわからない」 彼女はふるえている。 「あの王様、ピュー太を助けるよう頼まれた。でも、みんなの投票で生かすか殺すか決めさせた。王様はいちばん偉い人。王様が命じれば、ピュー太は助かる。それを、なぜ投票で決めるの? なぜ?」 「それは……」 あの映画に欠けているのは、王族の視点かもしれない。実際に王族の一員に観られるのを想定しなかったのだろうか。 「つまり。王様は大衆の声に逆らえないんだ。王座に居すわり偉ぶってるけど、ほんとうは大衆の総意を汲み取って国政に生かすしかできない。もし大衆が望むのと反対のことをして嫌われ、国中からそむかれれば王座から追い落とされてしまう。王権ってそういうものなんだよ。あの王様にはそれがわかってたから、自分の一存でピュー太を助けたりせずに、処遇をみんなの投票に委ねたんだと思う」 彼女はぼくの説明なんぞ半分もわからなかったに違いない。 「かわいそうなピュー太。悪い鳥じゃないのに、みんなからすごく憎まれて。とても、とても不幸。助けるには強い力と愛情いるのに、王様にも救えなかった」 14歳の少女にとって大事なのは、トルストイばりの歴史理論ではない、自分の感情だ。 「あんな物語、間違ってるわ」 アスタナはなんら臆しもせずにぼくにしがみつくと、胸に顔を押し付けた。そして少女の身をわななかせた。慟哭している。 え? ええっ? 泣いてるの? まさか。あんな馬鹿アニメで? ぼくは相手の思わぬ反応に狼狽し、慰めようと懸命になった。 「あれは作り話だよ。愚民の頭で勝手に思い描いた王様だから、現実に存在する国王とは違うんだ。もちろん、きみのお祖父さんはずっと立派だよね」 アスタナはぼくの胸に顔を埋めたまま、かぶりを振った。 「もっと酷いの」 これじゃ返答に困り果てる。 「だから……映画の中でくらい立派な王様が見たかった」 よくわからないが。複雑な他家の事情を垣間見る思いがした。 やがてアスタナは泣きはらした顔を上げると、それまでとは違う挙に出た。 自分が心を通じ合わせた異性の腕の中にいることに思い至ったのだろうか、寄り目でキョトンとした感じとはいえ少女なりに真剣な表情をつくって、こちらと目線の動きをからませた。 ぼくとアスタナはある了解が成り立ったのを確かめあうように、たがいの瞳の中を探り合っている。 これならキスしても不自然じゃないな。そう感じた刹那、相手はいきなり伸び上がり、こちらの身に体重をかけるようにして不意討ちのようにくちづけを挑んできた。 急の攻撃をくらったぼくだが、即応で受け止めたのち体勢を立て直し、今度は背伸びした姿のまま強く抱きしめて固定させた相手に、より以上の熱烈さをもってこちらから返礼をかえしてやるほどには柔軟な対処ができた。 アスタナの態度には曖昧なところがなかったので、ぼくのほうでもはっきりと意思表示がしてやれたんだ。 しかし、なんでだろう。これまで14歳の少女を恋人にしたいと思ったことはなかったのに。 「わたし、休みたい」 アスタナは上気した頬をぼくの肩に押し付けながら、息をはずませてささやく。 「あなたと一緒、二人になれる場所」 ぼくは周囲を見わたし、カフェテリアかレストランがないものかと探した。いや、そういう水準の欲求を訴えたのだと思っていた。自分も冷たいものでも飲んで熱を冷ましたかった。 しかしアスタナの目は一箇所に釘付けになっている。 「あそこで」 そう言って指差したのがズブリランドでひときわ目立つ、メルヘンから抜け出たような瀟洒な外観の建造物。 ズブリ・ホテル! 絶句である。 ここはほら、アレだ。若いカップルが思い出作りとかでデートの仕上げに利用するところ。 アスタナは知ってるのか? 知らない振りをしてるのか? ぼくは、まだ14歳の少女に向かって、諭したことを言わねばならなかった。 「あそこは18歳にならないとダメ。子供は泊まれないんだ。そういう規則のある場所だから」 アスタナは動じない。ぜんぜん。 「だいじょうぶ。買収する。子供も泊まれるようにする」 そういう問題じゃないんだけど。 「買収? ホテルを買い取るのかい?」 「ホテルの受付にお金わたす」 おお、なんと。 アスタナの財力を買いかぶるあまり、現実認識については見くびっていた。王者の娘にもかかわらず、とことん合理的、あくまで実行可能な手段だけ試みる性格のようだった。ということはつまり、ぼくたちがホテルに部屋を取るのは可能と思っているわけだ。 必要なものはぼくの同意だけらしい。 しかし、その同意をあたえるわけにいかないのだ。 だって、まだ早すぎる。相手の年齢、会った日数。真昼間という今の時刻。 ぼくはなんとかして思いとどまらせようと彼女の立場を思い知らせることを言った。 「きみは一国の王女様だ。ああいう場所に行くなんて、王家と祖国をおとしめる」 「そう? あそこダメ? それじゃ……わたしの泊まるホテルに来ればいい。ホテル・ニューオーワラ。ニューオーワラのわたしの部屋」 ホテル・ニューオーワラ!? 以前、警備の仕事で派遣された。外国の芸能人や政治家、王族もよく利用するという格式の高さは雲より上にあるホテル。しかもアスタナ王女が泊まる部屋。間違いなく、VIP向けの特等スイートだろう。 王族としてのプライドに点火してやれば、分別を取り戻すかと思ったが。アスタナの場合、王族としての特権意識を燃え上がらせただけらしい。 冗談じゃない。 王族のスイートルームにぼくみたいなのがあがり込んだら、大騒動確定。国際問題だ。 「お付きの人が大勢いるんだろ。絶対また、群がって騒ぎ立てるから」 「それも買収する」 貴様、ほかに解決法を知らんのか。 「あなた、その服装ならだいじょうぶ。その服装でわたしの部屋まで来る」 いや、あまい、あまい。ニューオーワラの特等領域は警備服だけですり抜けられる場所じゃない。チェックが厳重すぎて、従業員でさえ入れなかったり出られなかったりトラブル頻発なのである。 しかし根本的な問題は、彼女がまだ14歳なのに20歳の青年との恋愛がかなえられると思っていることだ。 なるほど。彼女の身では自分は「もう14歳」だろうけど、ぼくのほうは「まだ二十歳」。アスタナにはわからないかもしれないが、なにかと難しい年頃だ。たとえば、14歳の少女と色々やったら警察に連行のうえ取り調べられるハメになる。 そのことを婉曲に伝えたところ、彼女はやはり何もわかっていなかった。 「いけないこと? わたしのお母さま、わたしの年にはお父さまに嫁いでた」 「あいにく、ぼくはきみのお父さまじゃないよ」 14歳との結婚ごっこは認められない国にいる。 「きみの御両親が成婚なったときは国を挙げて盛大に祝ってもらえたかもしれない。だけどね、ぼくがきみの寝室に入ったら、とっ捕まって変態呼ばわりがオチさ。恥ずかしいことだ」 「恥ずかしい?」 アスタナの体内では、彼女の本性をあらしめる王家のDNAがうごめき始めたようである。 「わたしの招待、このアスタナ・ハイファットの! 地上のだれが恥ずかしい?」 「このぼくが」 小娘と警備服の男との間には沈黙が訪れた。これまで言葉を発することなく二人を結びつけていた沈黙とは違う、気まずいと呼ぶには断絶的なほどの沈黙が。 やがて。 警備員は王族の少女にやさしく思いやる言葉をかけ、その沈黙を終わらせた。 「王女殿下。タクシーに乗るお金はお持ちでしょうか?」 「リムジーン待たせてある。駐車場に」 「それでホテルにお帰りください」 間違いなくこれは終わるな、と覚悟した。 まだ始まったばかり、いや始まってすらいない仲だったのに。 アスタナはその夜、日本から発っていった。 そして今年。 警備会社から突然、とても割りのいい仕事があると指名を受けた。 なるほど、相場をはるかにしのぐ高給で付帯する条件も格別。 しかし、その仕事。 駐日カザルスタン大使館の外側の警備業務だ。 アスタナは15歳、花開く直前の名花のようだった。 不可解な面持ちで出勤したぼくを認めた彼女は、旧知の間柄のようにあたたかく笑いかける。 たしかに旧知には違いないが。再会を祝されるような別れ方はしなかったはずだ。 どう対していいのだろう。儀礼的に訓練で仕込まれた敬礼で答礼に替えたが、この他人行儀な挨拶にも臆すことなく彼女はぼくの傍らに寄り添った。はじめから自分の居場所と決めたような自然さだ。 わからない。なぜこの娘はぼくのそばにいたがる? そもそも、警備に派遣される場所にきまって彼女はいる。足かけ三年、そんなことばっかりだ。 アスタナの日本語も舌を巻くほど上達していた。 日本の女の子と話すのとまるで変わらない。いや有体に言って、大方の日本娘のほうがアスタナより言語能力が劣るくらいだ。 話題についてもよほど勉強したに違いなく、日本のことにおそろしく詳しいのだ。政治、地理、経済、文化、歴史、芸能、ファッションや流行……彼女の博識ぶりはあらゆる分野にわたり、ぼくにはわからないことまで答えられる。 真に恐るべきは、彼女が、諸国訪問での実体験を土台とする価値判断で日本の事物を贔屓目も見下しもない、独自の視点で評価できることだろう。 彼女は日本をどんなに好きになっても、嫌いなところまで受け入れられないのはわきまえていた。なんでも日本をヨイショするただの日本かぶれとは出来上がりが違う。 さて。 仕事の内容は実質、アスタナと一緒に過ごすことだった。 毎日、彼女を送り出す車に同乗、インターナショナル・スクールに着くと、校門の前で自分は車から降りて、以降は門前で待機という定めになっていた。 なんで専属の警備員が別にいる施設の壁の外を見張るのか。 しかし、それは表向き。アスタナ王女がぼくに望んだ役割はそんなことじゃない。 彼女はなにかと理由をつけては、ぼくを校内に呼び込んだ。 小銭を忘れた。コンビニでお使いしてきて。お昼に焼きたてのピザ買ってきて。ちゃんと暗記できてるか質してくれない。着替えるので見張ってて。校舎裏に変な人が……。気持ちが悪くなったから(または運動中に怪我したから。どちらも明瞭な嘘だ)保健室まで運んで。実習で料理作ったから味見して(いや、毒見だろ)。友達と記念撮影するからシャッター押して。ゲームしたいけど人数が足りない……。 やれやれ、まったく。警備員だか重宝さんだか。 しかしそれは初めのうち、まだアスタナがおとなしくしていた頃だ。 やがて学校をサボタージュするようになった。 彼女はよく授業を途中で抜け出しては校外に出てきたものだ。 それから警備員姿のぼくを伴って、都内を散策するという算段。 行き先はこちらにおまかせだった。ぼくは毎回、連れていく場所でアスタナを退屈させることのない、良きガイドぶりを示した。 これまでいろんな場所に派遣され警備の仕事をしたせいで、都内観光の穴場やイヴェントには詳しいほうだし、有名スポットとなると隅々まで知り抜いていた。 アスタナもぼくの道案内をすっかり信頼してくれる。 合間にはお茶を飲んだり、食事をしたり、デートのようだった。 ぼくたちは奇妙なカップルだったかもしれない。 都内の名所や穴場を連れ添って歩く女子高生と警備員。馴れ馴れしくもしなければ肩を組むこともない。アスタナは真剣だし、ぼくは生真面目、不徳の気配はまるでなかった。 もちろん、学校にも大使館にも内緒の行動だが、バレる心配なんてない。 決まった時間、決まった場所に送迎の車が待ち受け、ちゃんと定時まで授業を受けたように見せかけて公邸へと帰宅する手筈になっていたから。 彼女はちゃんと運転手を買収してあったんだ。 さて。話を大使館の正面玄関でのことに戻す。 ここからが始まりだ。 「わたしは駐日大使の娘。日本人のあなたと仲良くしないでどうするの」 アスタナはなかなか門の中に入っていかない。どんな話題でも尾ひれをつかんで、ぼくと話し続けたい様子だ。 「つまりだ。ぼくが日本人でなければ、こんなに仲良くしてくれなかったわけ?」 「そうよ、アキマ。あなたは日本人、わたしは大使の娘。だから当然……」 アスタナは同意する口ぶりでいたが、突然、思い直したようにかぶりを振った。 「本当のこと言うとね、アキマ。あなたが日本人じゃなくて、カザル人ならもっとよかった。いつも思うの。あなたがわたしの国で生まれ、わたしと想い出を共有しながら一緒に育った人ならどんなに素晴らしいだろうって」 彼女の語りはまるで、「なぜあなたはロミオなの」と訴えるかのようで、いくぶん自分に酔ったところがなくもない。 おなじような願望はぼくも抱く。 でも実際は、ぼくたちの間には、外国大使のご令嬢とその滞在国で雇われた警備員という以上の溝がある。血筋や身分などではない、ずっと絶対的な断層により分け隔てられている。 なぜなら、この自分は日本人だから。 天上天下唯日独尊。日本という世界一の人種不平等国家に生まれ、そこで成人した。偏見がないつもりでいても「ジャパン・ファースト」の刷り込みを受け、いまさら異文化の民にたわいもなく溶け込むのは難しい。 たとえばネット右翼と呼ばれる市井の国粋主義者らはインドやトルコが親日国だと吹聴し、まるで日本の勢力圏であるかのように得意ぶるのだが、しかし彼らが個人個人でインド人やトルコ人と仲良くする気がないばかりか、それらの国から大勢の移民を受け入れ日本の中で共存しようと思わないのは歴然としている。 そういう国なのだ。 せめてカザルスタンがもうちょっと身近な国ならよかったと思う。 台湾のように、韓国のように、中華圏のように。 でもカザルスタンは遠い。アスタナはこんな近くに、抱きしめられるほどの距離にいながら彼女の故国ははるか彼方にある別世界。文化も風習も民族も宗教もあらゆるものが日本と違う。 彼女はそこから来たんだ。 実際、この少女のどんな言動も極彩色の絵の具に浸かった筆が淡彩画の世界を這うように、なぞった跡に強いインパクトを刻みつけている。 ぼくが一歩を踏みだせない理由も結局はそこにあったのかもしれない。アスタナと決定的な関係を結ぶのは自分が住むのとまったく異なる世界に飛び込んでいくことだ。 けれどもアスタナは夢に浸りきって実現させずに終わらせる少女ではなかった。 彼女は何事か意を決したように、話し相手に踏ん切りよく背を向けると門の中まで何歩か歩いて、振り返る。ぼくとは門構えをはさんで向き合う格好となった。 それから両手を広げ、迎え入れるようなポーズをとった。 「ねえ、アキマ。ここから先はカザルスタンの領土なの」 知ってる。大使館とか領事館ってのはそういうもんだ。敷地の中は不可侵領域、警察でもうかうかとは入れない。ぼくが踏みしめるのは日本の国土だが、彼女のいる場所は別の国だ。 「いい国だけど、人口が少ないの。わたしのお部屋なんかね、住んでるのがたったひとり。だから夜はいつも、寂しくて泣いてるわ。あと一人、あと一人だけ増えてくれれば、幸せ一杯で過ごせると思うのよ。ちょうどそこに一人、暇な人がいるみたいだけど。来てみない?」 「いや、用事がないよ」 「親善のため、民間使節という名目で」 「残念。任命されてない」 「わたしが任命する」 「きみが? どんな権限で?」 「いいえ。私の身分は大使の娘。そこまでの権限はないけど。でも……」 アスタナは恥じらいのない流し目を、言外の合図のように送ってきた。こういうときの表情は日本の女の子とは違う。 「わたしにとって、あなたは男の世界に暮らす人。だから男の国の代表に、親善大使として受け入れたいの」 おいおい。本当に、おいおいだ。そういう誘い方があるとは思いもしなかった。 なおも返答にとまどうぼくにアスタナは、さらに誘いの言葉をたたみかける。 「来てみれば? 簡単よ」 本音を言うと、この門から中へと入りたい。 大使の娘が直々に招いてるんだ、検問での拘束などあり得ない。しかし……。自分にとっての問題はむしろ逆で入館を阻止されないことだった。 門から入ったら彼女の部屋のベッドまで直行させられるのはわかりきっている。 大事なのはアスタナがまだ、15歳の少女ということだ。 いや、みんなの言いたいことはわかっている。 なんだよ、何を手間取ってる? つまんねえ野郎だな。さっさと、やることやっちまえ。相手はもう女子高生だろ? バレなきゃ大丈夫だから。裏じゃみんな相手を見つけて、やってるぜ。俺なんか中学女子と毎晩寝てるんだから、夢の中で。 しかし、だ。 ここまで年齢にこだわりお誘いを固辞するのは、臆病だからでも優柔不断だからでもない、相手を思いやる証拠、意志が強い証拠と思ってほしい。とにかく、自分としてはそのつもりなんだ。 「ぼくたちは会ったばかりだよ。まだ、そんな深い間柄じゃないだろ?」 「あら、去年もそう言わなかった?」 「去年は三日と一緒にいなかった。とにかく、もっと日数が要る」 「日数が大事? 今年はいつまで一緒にいればいい?」 「たがい同士をよく知り合うまでさ」 「もう、よく知り合ってるでしょ」 「きみは人を値踏みするのが早すぎる」 「ものの価値はすばやく見分けて、すばやく手に入れるの。その買い方で後悔しなかった」 この娘、買うほうの利得しか考えてないだろ。 「言っとくけど。そんなにすばやく自分を売却する気はないからね」 そうさ。ぼくの身は売り物じゃない。 アスタナは相手との買収交渉の失敗を受け、嫌味たっぷりな物言いで応酬する。 「陳列しておきたいの? 待たせれば値打ちが増すと思ってる? 売れ残ったら、年末にバーゲンセールでもやるつもり?」 年末? いや、来年まで待ってほしいと言おうとして、たじろいだ。彼女の欲しいものは何としても手に入れようとの気迫のこもった真剣な眼には有無を言わさぬものがある。冗談は通じない。 「わたしもう、ローティーンじゃないの。カザルスタンでは女は15歳になれば……」 「結婚できるけど親の承諾が必要なんだろ? だけどきみのお父さん、こんな男に娘をくれると思ってる?」 「いいえ。その先は聞かないほうがいい」 なぜか彼女の目には殺気がみなぎった。それから「いつまで待たせるの?」と問うように、挑戦的に腕組みをする。鋭い視線はまったくそらさない。 最後通牒をわたされたように感じた。 早急で慎重な対処が必要な状況だ。来年どころか明日までさえ待ってくれないだろう。返答をしくじれば彼女、警護を呼びつけてぼくを敷地の中に強制連行しかねない。なに、侮辱されたとか理由はいくらでも付けられる。ぼくのほうが姫君に飛びかったことにされるかもしれない。フリーターの若者が都内でひとり消えたって事件にもなるまい。 アスタナは、駄々っ子をねめつける駄々っ子のような顔をした。 彼女は怒りを爆発させ、行動に踏み切る直前だった。 その瞬間、ぼくは覚悟を決めた。何が起きても受け止める覚悟を。 ついに一歩を踏みだした。 アスタナのほうがだ。 門から出てきたと思ったら、ぼくの制服のネクタイをつかみ、自分のほうへと力をこめて引っ張った。そのまま相手を領土の中へと連れ込んでしまう。警護官の助けは借りなかった。 不意を突かれたぼくは自分の身を支えようとアスタナにしがみつく格好となったが、その彼女も相手を支えきれなかった。 ぼくたちは折り重なるようにして倒れこみ(その刹那、組み合ったまま身をよじり、自分のほうが下になって地面の衝撃から少女の身を保護するセンスは忘れなかったが)、抱き合ったままの姿で大使館の敷地に横たわるたがい同士を見出した。 「ようこそ、わがカザルスタン王国へ」 アスタナの強引な歓迎の祝辞にぼくは戸惑いながらも、不可侵の領域に踏み込んだようなスリルを味わっていた。 「ねえ、このままじゃ不法侵入だ。なんでもいいから、入国許可の認証を。すぐに!」 アスタナはすかさず、ぼくの顔中いたるところにくちづけをしてそれに替えた。 かたやカザル側の警備陣は検問のチェックもせず、ニヤニヤ笑って見ているばっかりだ。なんたる勤務態度。 アスタナ、仰向けになったぼくの上にまたがるようにして息を切らしながら。 「あなたは幸運だわ。昔のカザルスタンでは女は15歳になったら、自分のほうからプロポーズしたものよ。気に入った男に飛びかかって手刀を喉もとに突きつけ、受け入れるか否かを問うの。それで承諾した男はね、異議申し立てをする男と決闘して殺さなければならなかった。逆に殺されることもあったけど」 「求婚を断ったら?」 「侮辱と受け取り、喉笛を掻き切ってしまう。阻止されたら娘の名誉のため親族が決闘を挑み、殺すか殺される。求愛も命懸けだった」 いずれにせよ、男が死なねばならない仕組みか。 「人口が少ないのはそのせいなんだね」 「そもそも多人数を養える風土じゃなかった。強い者しか生きてはいけなかったのよ」 きみを見てると、よくわかる。 それから、アスタナはぼくを公邸に招き入れた。 ちょうど大使夫妻は公務で不在、門番も使用人も買収していたせいか、だれにも気兼ねはいらないようだった。 足を一歩踏み入れたぼくは驚倒した。 公邸の中たるや、まるで王宮の内部を部分的に切り取ってそっくり持ってきたような、無駄に広壮で不必要なまでに贅沢な造りがなされた別世界。とにかく、普通の日本の家ではない。自分の実家の一軒屋など間違いなく、一階部分にすっぽり格納できてしまう。 カザルスタンは広い国だと聞く。狭い日本、わけても過密な東京で立ち働く王族の一家ともなれば、自宅というものがこのくらいゆったりした空間でなければ快適と感じずくつろげないのだろうか。 そんな風に思いをはせるというか気を鎮めようと努める客人の手を引きながら、少女なりに颯爽とした足取りで絨毯の敷かれた階段をのぼって上階へと導くアスタナである。着いた先は彼女の部屋。 ああ、やっぱり。 日本家屋の狭い空間に、寝具だの衣類だのホビーだのコスメだの雑多なものにくわえ女子高生まで詰め込まれた、一般には女の子の部屋と呼称される物置小屋を愛らしく彩ったような場所とは違う。 アスタナ王女の居室。そう呼ぶにふさわしい領域。まさしくアスタナの世界に、ぼくは招き入れられた。 あとのことは話せない。 15歳の少女と年上の若者との間で、この国の条例に反する行為があった。 いや、法的にはカザルスタンの領土の中で起きたのだから大丈夫だろう、心配いらない。とはいえ、ぼくたちは法律も国境もまったく気にしなかった。わけてもアスタナはそうだ。 けっして女知らずで通してきたわけではないぼくよりも15歳の少女の初めての男に対する情熱のほうがまさっており、あまりにも真剣な求愛の態度は相手の男をたじろがせるほどだった。 彼女は二人の関係において主導権をとり続け、ぼくのことをけっして放そうとはしなかった。 さて。 かくして情を通じ合ってからのアスタナときたら、愛する者への私物化のはなはだしいこと。 スクールへ向かう車の中でもまるではばかりなく警備服姿のぼくと密着するようにしてくちづけをせがむし、都内を連れ立って歩くときも節度に抑制がなくなり所かまわず抱きついてくる。 なにより困るのは、そうされるとぼくのほうでも発奮して相手の求めを拒否できなくなり、果てがなく思えるアスタナの愛欲と同調してしまうということだ。 そして、時と想い出が重なっていくうちに。 ついに彼女は、ぼくを自分の国にまで連れ出した。 カザルスタン王国首都ブンダラバッド。 緑あふるる環境の中、広い道路に沿って高層ビルが立ち並ぶ、計画的に造成された美麗きわまる人工都市。機内でスイートクラスの座席から眺める眼下の光景は目を見張らせるには十分だった。 なんと壮観きわまることか。これとくらべたら、大都会東京の中心部など飾り立てた人口密集地帯にすぎない。 アスタナは首都で最高のホテルの最高の部屋に、最高の想い出の場を用意していた。 ぼくは彼女がこれだけのものをしつらえるのに払った労に思いをはせ、感無量となった。 「あちこち買収するのが大変だっただろ?」 「いいえ、一シリアットも使ってない」 シリアットはカザルスタンの通貨の単位だ。 「お祖父さまにおねだりして譲ってもらった。ここはわたしのホテルなの」 彼女は広い部屋や高い天井に目線を泳がせながら、得意顔だった。 「お祖父さまはわたしにやさしいの。欲しいものは何でもあたえてくれる。望めば油田の権利もくださるでしょう」 「いいお祖父さまだ」 「そうよ。表向きだけは」 なんだろう、親族への愛憎交差するこのアスタナの態度。前にも気になったことだが。 それからあとは、語るまでもない。 ぼくとアスタナは、恋人同士の関係を、ここで完成させた。 はたからは馬鹿馬鹿しく思えるだろうが、二人ともハネムーン気取りだった。 夜分。 アスタナのものすごい悲鳴にしじまを破られ、隣で寝ていたぼくは跳ね起きた。 起き直ると彼女は、気の強いところは微塵もない、まさに悪夢から覚めた少女のように身を震わせながら、なにかカザル語でうわごとのようにつぶやいている。 「アスタナ……」 こちらの呼びかけに彼女は、自分の所在を取り戻し、失くしたものが傍らにあるのを認めたようにぼくの身にしがみついてきた。 「悪い夢でも見たの?」 「夢じゃない。夢じゃないの、実際にあったこと。こわかった……」 アスタナの育ちは王族の娘という身分から想像されるほど華やかなものでも安穏たるものでもない。 しかも彼女なりに大きなトラウマを抱えていた。 アスタナが幼かった頃、国軍の将校らの一部が王政への謀反を企み、実行に移したのだ。一度は君主に忠誠を誓った軍人たち、信頼すべき国王手飼いの警護兵による反逆だった。このクーデターは鎮圧され王制は存続したが、しかしアスタナの心には多くの癒しえない傷が残される結果となった。 その時の記憶がたまに、なまなましい悪夢となって蘇ってくるという。 混乱と流血と暴虐の一夜のことが。 けれども彼女が語り出したのは、お人形の話だ。 「わたし、兵隊のお人形を大切にしていたの。童話の世界から抜け出たような、きれいな軍服を着て、きりっとした儀仗兵のお人形」 アスタナの語り口は十代なかばの小娘のものではない、まるで子どものようだ。 「ほんとうに大好きだった。空想の中でいろいろ遊んだ。けっしてアスタナを裏切ることのない、命に代えてもアスタナのため戦い、守ってくれるお人形」 ぼくはアスタナを抱きしめたまま聞き役に徹することにした。 「でも失くしちゃった、反乱が起きた夜。大勢の反逆者たちに王宮が攻め込まれ、火事までおきて大混乱。侍従たちもわたしを置き去りにして逃げ、わたしはひとりで逃げまどった。反乱が鎮圧され戻ってきたときにはお人形もどこかに消えちゃったの。いくら探しても、二度と出てこなかった」 彼女の声はふるえを帯びてきた。 「お母さまもいなくなった。アスタナを愛してくれたけど、もっと愛してくれたらいいのにと思っていたお母さま。反乱軍の攻撃で、流れ弾を受けて絶命されたのよ」 その話については、カザルスタンの外では別のかたちで伝わっている。 アスタナの母親は決起部隊の将校と情を通じていたのが発覚、反乱鎮圧後に処刑されたのだ。国王じきじきの命だった。アスタナは流れ弾の巻き添えになったよう聞かされてきただろうが、もう大人だ。真相を知らないはずがない。ただ、認めたくはないのだろう。 アスタナの父だが、アスタナの母の死後、ほどなくして別の女性を正妻に娶った。まったく躊躇なく、駄目になったタイヤを取り替えるような速やかさで。当時、新しい妻とは実はずっと前から出来上がっていたのだと噂された。 そういう次第なので。 アスタナは現国王の直系だし、皇太子の正妻だった女性から生まれた娘。父親を愛していたし、父親からも実の娘として大切にされる身ながら立場としては微妙なものがあるようだ。 ぼくは話を、彼女の母親の件からそらした。 「きみの家はお金持ちだから、人形くらいいくらでも買ってもらえるんじゃないの」 「それがね」 アスタナは涙をぬぐった。 「あの夜以来もう、どんなお人形を見ても自分を守ってくれるようには思えなくて。夢物語には浸れなくなっちゃった」 彼女はぼくと向き合うようにして腕をまわす。 「もしかして、お人形もわたしを裏切ったのかしら。それで、どこかに行っちゃったのかしら」 「そんなことないって」 人形の身に何が起きたか知らないが、逃げ出さないとだけは保証できる。 「また帰ってくる? 侍従たちは、いまにきっと見つかるって言ってたけど」 この執着ぶりは一体なんだろう。母親の身よりも軍隊人形の安否をよほど気遣っている。 それでも彼女のめげる様子があんまり深刻なので調子を合わせ、「そうさ。いつかまた、出てくる」と言いそうになったものの、すんでのところでとどまった。 「でも……それは夢」 アスタナは、自分で答えを見つけていた。 「わたしの国では、裏切り、裏切り、裏切り……親子でも、恋人でも、兄弟姉妹でも、裏切りの繰り返しの中に歴史があるの。信義なんて言葉のうえだけ。誰も彼もが、あざむいて明け、あざむかれて暮れる。そんな毎日に耐えられない者には生きる場所さえない。国全体が、そうなの。いいえ、外からどう見えるかわからないけど。国王は民を信頼してないし、民のほうでも……とにかく、今はお金をばらまいて、つまり餌をあたえて満腹させることで誤魔化して平和な国情を保ってるけど、いつこの均衡が崩れるかわからない。いまに誰も彼もが王を、政府を、国を裏切って、真意をあらわにするでしょう。そのときは、わたし、どんな手を使っても……」 「何をする気?」 「いいえ、何もしない。だいいち、何もできない。ただ、絶対に裏切らない、アスタナを捨てて逃げたりしない誰かに、そばにいてほしいだけ」 「約束して。おねがい、アキマ。絶対わたしを裏切らない。いつもわたしのことだけ想ってくれる。わたしにそう誓って」 「誓うよ。絶対に裏切らない。いつもきみだけを想ってる」 「わたしの前に跪いて、そう誓える?」 ぼくは素っ裸のままベッドから降り、彼女の仰せにしたがった。 アスタナもそんなぼくの真ん前にやはり一糸まとわぬ姿で立ち上がり、右手をぼくの頭の上におく。まるで騎士が皇女から叙位されるような感じだ。 それから彼女はカザル語でなにごとか呪文のようなものを唱えてから、上体をかがませて、ぼくの耳に日本語でささやいた。 「ほんとうに誓える、アキマ?」 「誓うよ、王女殿下」 この儀式的な遊戯(と思っていた)でたがい同士がそれぞれにとってより重要な存在になったと直感したぼくは、その姿勢のままアスタナの身をかき抱いた。 「ねえ、アキマ。生活を変えてみない?」 翌朝。 アスタナはベッドの上で、ぼくの運命の岐路となる選択を持ちかけてきた。 「あなたって、頭が良かったのに家にお金がなくて大学に行けなかったんでしょ」 いや、それは自分のDQNぶりを美化して言っただけで。 実際のところは、浪人生活するうちにもっと小遣いが欲しくて警備員のアルバイトを始め、しだいにはまっていって進学を断念、いつのまにかこっちが本業みたいになってしまったという。 「この国の制度で、スルタン奨学基金って聞いたことあるかしら?」 「ないよ。ぼくがカザルスタンで聞き覚えがあるのは、きみの声だけさ」 「でしょうね」 アスタナは独り言ちるように微笑んだ。 「外国人に適用される制度で、教育を受けたくても資力のない人が対象。将来、カザルスタンで働くことに同意すれば学費をすべて出してもらえるの」 「ずっとカザルスタンで働かないとダメなんだろ?」 「二年だけ。でも、カザルスタンではどこの国より高給優遇だから、たいていの人は引き続いて働こうとする」 「そういうのに申し込むって、苦手なんだ」 ぼくは乗り気なのを抑えるように、興味のない物言いをよそおった。 「審査とかいろいろ厄介なんだろ? 面接まで受けて、さんざん期待をもたせて結局は落とされるんじゃないの?」 「いいえ。わたしがじかにお父さまにお願いするから……合格率は百パーセント」 なるほど。大使の娘の言うことだ、信用していいのかもしれない。 ぼくが受け入れる意のあることを相手に伝えると、アスタナは「やった!」という顔になって別室まで申請書を取りにいった。 用意してあったのか。 彼女はうきうきした様子で、分厚い書類を抱えてきた。束の中から二枚だけ引き抜き、ペンと一緒に差し出す。 目を通したぼくは頭を抱えた。やっぱり。全部、英語の文面じゃないか。なにがなにやら、読み通すだけで一生かかりそうだ。 アスタナはやさしく付き添うような態度で、一枚ずつ一箇所ずつ指し示してくれた。 「ここと、それからここ。署名するだけでいいの。あなたの名前をローマ字で」 言われたとおり、「Akima Taki」とペンを走らせる。 なんだ、簡単だ。ほんとうにこんなことで、学費をすべて出してもらえるの? 「そうよ。食費も住居費も服装代もすべて。そのうえお給料まで支給。地上のどの組織より厚遇が受けられる。だって、あなたはもう、カザルスタンの……」 「きみの国のなんだって?」 「違うわ。カザルスタンはもう、あなたの国なの。大丈夫、わたしの言うとおりにしてもらえれば安心だから」 その意味はまもなく、わかった。 つまり、だ。 ぼくが署名したのは、奨学金の受給申込書じゃない、軍人それも将校を養成する士官学校の入学申請書だった。 そうだよ、軍人にされてしまったんだ! ぼくは待ち受けていた警護官らに身柄を拘束、そのままカザルスタン王国陸軍に移送され(つまり強制連行だ)、契約した通りのことを身をもって果たす仕儀となった。 いや、拒絶など許されない。契約書にサインした以上、おまえはすでにカザルスタンの軍属であり任期明けまで日本には帰せないと告げられた。 (実はハッタリだったのだが、思いめぐらす知恵がなかった。口答えする語力もまだなかった) かくして数ヶ月のうちにぼくの精神と肉体は、日払いアルバイトの警備員から外国で軍隊の指揮官が務められるものへと改造されていく。 課される教練はさすが本物の軍隊だけあって容赦のないものだが、アスタナの言うとおり待遇は良かったし(とりわけ士官候補生の待遇は)、月日を経るにつれたいした苦労とも感じなくなる自分が出来上がりつつあった。 意外にも任期中、逃げ帰ろうとは思わなかった。 それどころかカザル人との仲間意識、連帯感が形成されるのを認めねばならなくなった。 それはアスタナが毎週、暇をつくっては会いに来てくれたことも大きいが。そうさ、はるばる東京からぼくのいるカザルスタンまで、逢瀬のため。 士官学校の外出日にはぼくをじきじきにアスタナ・ホテルに招く。 「やり方は強引だったけど、おたがいのため。あなたには軍服が似合うし、わたしには軍服姿の男が似合うのよ」 彼女は来るたびに、自分の恋人が身も心も立派な軍人として造型されるのを見ることが何より楽しみな様子だった。 そういう彼女も月日とともにますます魅力的で愛おしい存在へと成長、毎週ぼくにこのうえない楽しみを提供してくれる。 「見込んだとおり。あなたって、こういうのに向いてるのかしら」 「契約と命令に縛られるだけの 馬鹿ってことだろ」 「あら。国務にしたがうのはわたしもおなじ」 日本では在京カザルスタン大使の令嬢として、精力的に友好と親善の役目をこなしているそうだ。 アスタナのような存在をメディアが放っておくわけがなく、連日のように各方面から引っ張りだこ、すっかり親日アイドルと化している。大人になったら父親から地位を受け継いで本物の日本大使として常駐するのではとの噂もささやかれる。 大使の卵というわけだ。 いや。彼女が日本で何をしようとも、遠い異国での夢物語。いまの自分には、逢びきの場で寄り添ってくれるアスタナだけが現実だった。 問題は刑期、いや任期を終えてからだ。 契約では、二年間の教育期間を経たのち、カザルスタン王国の陸軍少尉として命じられた先へ任官することになっていた。しかし、その赴任先というのが……いいか、大事なことなので二度言うぞ。このアキマ・タキ少尉の赴任先というのがだ。 カザルスタン王国の東京大使館。 役割は、大使およびその家族の身辺を守る警護部隊の指揮官だ。 差別デモやテロ事件の頻発により、東京も近頃は物騒になってきた。自分には当座の手勢として六名の部下が付けられた。必要とあらば、さらに増員を要求してもよいことになっている。 まったく。 自分の生まれ育った国に派遣され、血縁もない国の外交使節を守るため要員を指揮する職務をこなすとは妙な気分だが。 着任して最初に参じたのは、家族のところである。 「母さんや。アキマの奴が拉致から解放されて戻ったぞ」 「あらあら、まあまあ。お変わりなかった?」 「お父さん、お母さん。この国で育てていただき、ありがとうございました」 日本国籍を失うことについては事情を話せばわかってくれた。 「おまえが別の国の軍人になるとは信じられない思いだが、自分で決めたことならまあ仕方がない」 「なんだかわからないけど、体だけは大事にしておくれ」 あれ、息子との間に国境線が敷かれてる。カザル人になっただけ、親子の縁が切れたわけじゃないのに。 弟はさすがに屈託がない。ミリオタの学生らしく、いろいろ訊いてくる。 「ねえねえ、カザルスタってヤバイ国だって? 軍隊で銃の撃ち方ならったんだろ? 戦争になったら敵をぶっ殺すの?」 「もちろんだ。日本が相手でもそうするさ」 世迷いごとではない。第九条もなくなる気配だし、周辺国も安穏とはしていられないのだ。 翌日。 王国大使館での日カ友好何十周年だかを祝う式典に出た。 「アキマ・タキ少尉、まいりました」 「ご苦労」 カザルスタン王国の東京大使は、正装した警護隊士官の姿で着任したぼくを迎え、家族や館員らに引き合わせた。 アスタナとは顔合わせしなかった。彼女はさすが人気者で来賓や報道陣の対応に忙しくて場をはずしていたからだが、いまさら自己紹介しあう必要もない。その前日、カザルスタンを離れる前にもすでに会ってたし。 しかしこうして、公式の場で典雅に髪を結い、垢抜けた仕立てのアフタヌーンドレスに身を包んで立ち動く姿を眺めると艶やかさはひとしおだ。落ち着いた色調の装いは彼女の若々しさを引き立てていた。 そうやって彼女に見惚れる自分の姿も十分に人目を惹くものだったらしい。 取材でちょうど館内に居合わせた日本人記者がこちらの姿を認めるや、吸い寄せられるように寄ってきて、たどたどしい英語で質問を差し向けた。 「立派なお姿ですね。ご出身は?」 「東京から」 日本語での即答を受け、相手は使用言語を改めた。 「東京でお生まれになったのですか?」 「育ちも東京です」 「道理で。日本語お上手ですもんね」 やれやれ、日本語を褒められるとは。もはや日本人には見えないらしい。 「失礼」 ぼくは化粧直しの鏡面の前に立ち、大きな鏡に自分の姿を映してみた。 なるほど、こりゃ普通の日本人じゃない。同胞だなんてわかるもんか。 そこには、日焼けし、きびきびと引き締まった体躯、キリッと緊張した面持ちながらも目付きは呆れるくらい純朴という、まるで規律と忠誠を体現したような風貌で直立する士官がひとり。 服装はやはり、いただけない。ゴテゴテと華美にすぎ、彩色が際立ちすぎて、はっきり人目を惹きつける。 平常の職務はもう少し地味な制服、場合によっては私服でこなすのだが、新任の挨拶はこの礼服に身を包む必要があった。 それにしても、無意味なまでに贅美なデザインだ。 羽飾りのついた帽子。階級章にバッジ、金ボタン等の光り輝くアクセサリーの数々。上質そうな光沢を放つ革製のブーツ。しかもご丁寧に、右肩から斜めに上体を締め付けるストラップで吊り下げたサーベルまで(そんなもの何に使うのかって? 知るかよ)。 なんなんだ、この大時代ぶりは。まるでオモチャの兵隊だろ。 「気を付け」 かたわらで聞こえる程度の小声でふざけて号令をかけ、アスタナが隣りに立った。 ぼくは反射的に、ほんとうに条件反射のように、両腕を両脇にくっつけ、不動の姿勢をとる。すっかり兵隊になってしまった。 東京大使の娘はなんの悪びれもない風で、鏡の中のぼくに微笑むと、目線を自分に戻して髪を整えるふりをはじめた。品のよい薄紫色のドレスをまとった王族女子と並んでも、自分の服装は際だつ派手やかさで、おとぎ話から抜け出てきたようだ。 「ねえ、お姫さま」 ぼくは周囲の目をたしかめてから、肘で彼女のわき腹を突っついた。 「この軍服、時代遅れだよ。国王陛下に頼んで、もっと今風のに変えてくれない?」 「わたしが子供の頃から変わってないの。よく似合ってるし、そのままでいいでしょ」 「きみも変わりたくないようだ」 「子供時代の自分を裏切れないもの。大勢の人から裏切られてきたけど、あの頃の夢だけはかなえたかった。絶対に自分を裏切らない存在がいてくれる夢」 アスタナの目線は、鏡面上をぼくのほうへと泳いでいく。 「その姿。そっくりだわ。やっぱりあなたって、思ったとおり……」 傍らで当惑した表情のまま立ち尽くすぼくの腕に自分の腕を絡ませると、アスタナは愛情をこめてささやいた。 「探したのよ。どこに行っちゃったのかと思ったけど。戻ってきてくれたのね、わたしの儀仗兵さん」 |