「顔にタヌキと書いてある」5
――アイドルは狸の化身――


                     

このイメージ画像は描画ジェネレーター「NovelAI」で制作されました。



「やがてわたしの居所を探り出し、あれが来るでしょうけど。タヌキには逃げ切ることもできません」
「そこに交番があるけど。駆け込んでみる?」
「明かせないんです」
 マヤは信号機でも見るような目で派出所をチラ見したきりだ。
「自分の正体や人外の存在を公(おおやけ)になどしたら、報復に、日本のタヌキは根絶やしにされてしまいます」
 なんで? たしかにマヤはタヌキの化身だが、それを個的に公表したのを罪に問い、種の全体を滅ぼすとは何者か知らないが無体すぎないか。
「だいいち警察では、人の力では、あれは防げません」
「あれって、そんなに強いの?」
「闇を通じて、この国を牛耳る存在です」
 あれあれあれ……。
「わたしを、あれから守る方法はひとつだけ……」
 マヤの口調は、懇願というよりかなえられない願いをつぶやくかのようだ。
「先生が……先生がわたしの身請け人になること。つまり、責任もって飼育と調教を果たすとあれの前で誓約してもらうこと。そうすれば、わたしは……」
 飼育と調教だと? おい……。
 マヤはなかばあきらめた顔で、ため息をつく。
「勝手なお願いですよね」
「いや。慣れてるよ……女性の身勝手と頼みごとには」
 谷はゴホンと咳払いした。
 しかし……思案のしどころだな。

 それからさらに走り続け、閑散とした佐原のサービスエリアに着いたとき、谷はようやく車を停めた。
 ここから先は関東の秘境地帯、踏み入れば文明から離れることになる。
「さて……」
 谷は、マヤと顔を向き合わせた。
「東京を出るとき、訊きたいことが山ほどあるって言ったけど。どんどん増えてきて、いまや海ほどの量だ。いったい、どこから質したらいいのか……」
「すべての答えがお望みなら、しばらくわたしとご一緒ください。答えのほうから出てきます」
「すぐに答えがほしいものもある」
「二秒で答えられる質問でしたら、いくらでもどうぞ」
 マヤはすでに、真証寺で捕捉される前の彼女らしさを持ちなおしており、谷もニンマリと頬をゆるめる余裕を取り戻すことができた。

 谷は、熟慮の末の判断を口頭で伝えることにした。
 最終候補に審査の結果を申し渡すような、真意のほうを巧みにはぐらかす口ぶりで。
「さきほど、女性のわがままとおねだりには慣れてると言ったけどね。あいにくだが、きみは人間の女性と違う。つまり普通の存在じゃない。ところで、この谷優(たに・まさる)の異名はオカルトマスター。超常世界について地図が描けるほど詳しい……と思われてはいるが、実のところ子供だましの博識ぶりでその道の専門家を気取るにすぎない。でも一応の向上心はあるから、まやかしじゃなく正真正銘のオカルトマスターになれたらと念じ続けてはきた」
 マヤは神妙に耳を傾け、谷の長広舌の一語一語から核心となる単語を探り当てようと努める。
 思えば、彼の口から出る言葉でどれだけの数の少女らの人生に悲嘆や歓喜をもたらしたことだろう。しかし今回の判定となると、申し渡される相手ばかりじゃない、谷自身の命運をも左右しかねないのだ。
「そんな男がだ、いまさら尻込みしてどうする? 自分を変えてくれる異世界への扉が目の前にあるのに、開けない手はないだろう。まして、不思議のほうからこちらへと寄り添ってるのにすげなく追い返すなんて、外道な真似ができると思うか?」

 なんとなく期待を抱かせたところで、谷は一呼吸おいた。
「それはそうと――」
 油断はできない。オーディションの場ではあとに続くやり取りで、合格手前まで行った候補者を幾人となく奈落の底に突き落としたものだ。
「ひとつ訊きたいが。きみと一緒にいると、さっきみたいなこと頻繁に起こるのかい?」
「慣れてください。わたしにも、ああいったことにも」
「慣れるだって? 慣れる? 普通の奴だったら、あんなのに慣れるもんじゃないだろ」
 マヤは、でしょうねという風に、不承の相槌を打った。
「実を言うと、わたしも慣れたくないんです。なにより谷先生にご迷惑がかかりますから、あたうかぎり避けたい事態とは思います。でも……さっきのように事情が避けるのを許さない場合もあるし、だから……」
「了解。覚悟はしておくさ」
 それが谷の最終回答である。

 了解。覚悟はしておくさ。

「………………」
 しばしマヤは相手の言葉を反芻しながら意味をつかみ取ろうとする面持ちでいたが、谷の物言いではなく表情から真意を理解できたらしく、途端に顔を輝かせた。
「!」
 マヤは満面で、そして全身で狂喜し、車体を揺らすほどの勢いで谷に飛びついた。そしてあまりにも自然なありようで、熱烈な接吻を挑んできた――。
 谷自身、それを当然のように受け止めていることに、心の片隅で驚いた。
 おい、口をふさぐな。
 質問はまだ終わりじゃないぞ。訊きたいことがたくさん残ってる。
 とはいえ、自分に覆いかぶさるようになって感謝と感激をかたちにしてあらわすマヤの身を払いのける気などしない。

 もとよりマヤに魅力を感じなかったといえば嘘になる。上から下まで、よくぞここまでというほど理想を具現化したような造型だ。そのうえ、こう出るかと思わせながらつねに意表を突く振る舞い。虜にならずにいられない。
 けれども正体はタヌキ。人間の娘に接する場合とは違い、距離を置いてきたところがある。
 されど。
 彼女が軽やかで弾力のある若い体をタックルさせるようにして抱きついた途端。
 谷は瞬速で心を奪われた。
 人としてのたしなみが築いた防御壁はあっけなく打ち壊された。
 谷もマヤの身を強く抱き返し、唇をはげしく吸い返す。
 ああ、ああ、ああ……。
 血潮のたぎる二十代当時のあの感覚がよみがえったかのようだ。
 この人間の小娘としか思えぬ存在に没入するのは、いままで相手をしたどんな女性よりも性的快楽をもたらしてくれるとの確信的な手応えさえあった。

 しかし。
 種族が違う!

 谷の理性が揺れ戻るのとマヤを抱きしめたまま身を起き直らせるのとはほぼ同時だった。
 谷は髪をなおしながら、落ち着いた物言いをしようと努力した。
「質問の……続きをしていいかな?」
「このうえ、まだ訊きたいことが?」
 マヤは喜びと興奮で頬を高潮させながらも、谷ほどには動じていない。
「そうだな……きみは舌先がとても達者だけど。いや、キスじゃなくてしゃべるのが上手という意味で。それだけの人間の言葉をどうやって?」
「母が日本文学の翻訳者だったから、日本語には子ダヌキの頃から馴染む機会があって」
「ふ〜ん」
 なんだ、この娘ときたら。日本語を褒められた外タレみたいなこと言いやがる。
 それにしても。
 タヌキで、日本文学の翻訳者?
「母は帰化ダヌキだったんです。大学教育を受け、英語もできました。海外に脱け出して後半生をのびのび過ごすのが念願だったけど、成田から国外に出ようとするとき……」
 あとは言いよどんだ。つらい出来事だったらしい。
 谷は話の向きを変えた。
「帰化ダヌキって?」
「人の世界で人になりきって暮らすタヌキのことです」

「帰化ダヌキって、人に気付かれないけど、けっこういますよ。キツネと折り合うためのルールさえ守れば、数は少ないけど、タヌキでも人の世界で暮らすのが許されるんです」
「キツネと折り合うルールって……誰が決めたの?」
「キツネです」
 マヤは「キツネ」という言葉をさも忌むべきもののように発語する。
「きみの言い方、気になるんだが。タヌキとキツネって、仲が悪いのかい?」
「対立の時期はとうに終わりました。いまではタヌキの領分はあらかた奪われ、追い込まれた奥地の狭い区域が居留のため認められるだけ。そのうえ協定による取り決めがあるんです。一方的に押し付けられた取り決めが」
 マヤの受け答えは二秒を超えていたが、もとより制限時間などどうでもよいことだった。
 谷はすっかり、話に惹きつけられていた。

「タヌキには人間界での行動に制約が課せられます。都市部に住まない。財産は築かない。人社会で要職に就かない。有名にならない。国外には出ない。人と愛し合わない。タヌキとしての誇りを捨てる……」
 しっかりした声で語りながらも、マヤの目は涙ぐんでいた。
「キツネを侮辱しない。キツネに危害をくわえない。キツネの領分を侵害しない。キツネが地歩を築いた地域、とりわけ彼らの聖地である神社や鳥居のあるお寺には近寄ってもいけない」
 それでか。だからマヤは、真証寺の前であんなに取り乱したのか。
 すると。追いかけてきたのはキツネの化身というわけだ。
「これらの禁に触れると、有無を言わさず処理されてしまいます」
「処理って?」
「毛皮でしか存在できなくなる。その毛皮もキツネのものになりますが」
「タヌキからキツネのほうに制約は課せるの? ここから入るな、とか」
「いいえ。タヌキの身でそんなこと言ったら、たちまち処理の対象に」
 協定って……そういうことなのか。
「どうしてキツネはそこまで、圧倒的に勢力を拡げたんだろう?」
 知りたかった。キツネはタヌキより、戦闘力が強いのか? 妖術の面で上回っているからか?
 マヤの返答は明快きわまりないものだった。
「あなたたちが、キツネばかり信仰するから」

 なるほど、たしかに。
 稲荷神社は全国いたるところあるのに、天かす神社なんて聞いたことないものな。
 しかし、わからない。いかなる仕組みで、人間がキツネを信仰したからタヌキが負けるんだ?
「それが、タヌキとキツネの勢力図とどう関わり合ってるの?」
「あなたたちが稲荷神社や鳥居のあるお寺に詣でると、お祈りが集合的な念波エネルギーとなってキツネ側に吸い取られてしまいます。それを得て、キツネたちはますます強くなっていくんです」
 マヤが稲荷を信心する人間たちを「あなたたち」と言い表すとき、恨みの気持ちがこもっているように感じられてならなかった。


「帰化ダヌキの話に戻るけど」
 谷はなんとなく後ろめたくなって、話をさらに切り替えた。
「きみもそうなの?」
「父のほうは野生種です。母が山歩きしているとき父と知り合って愛しあう仲となり、わたしが生まれたというわけ。母はわたしを人社会で育てようとしたけど、何歳(いくつ)になっても人に化けられずタヌキの姿のままなので、あきらめて山にいる父のもとへとあずけることに」
「人社会に帰化した家で育ったのが、山奥で獣の群れの中か。いきなり環境が変わって、つらくなかった?」
「山で暮らすほうが気楽でした。仲間も大勢。おかげでタヌキとしての帰属意識を得られたし」

「それに母は頻繁に会いに来てくれました。父と会うためでもあったけど。山小屋を買い取って、週末や夏冬の休暇はそこで過ごすんです。町の中と違うので、タヌキの身で遊びに行っても怪しまれる心配がありません」

「母からは広い世界のことを教わりました。キツネに乗っ取られた日本と違って、タヌキが自由を満喫できる海外の国のことを。人に化けられないわたしには夢だったけど、そんな夢を現実に近づけてくれたのが先生の本」

「ある日、母が先生の本を持ってきて、言うんです。「ごらん。人間がこういう変な本を書いたよ」。母としては、日本語の教材のつもりであてがったんでしょうけど、わたしには聖典以上に価値あるものとなりました」
「お母さん、ぼくの本にはどんな感想を?」
「残念ながら、人間の書いたものなんかとハナから馬鹿にして読もうともしなくて。だいいち母は上手に化けられるから、指南書なんて無用だったんです」
 谷は苦笑した。
「お母さん、人間以上にリアリストじゃないか」
「でも。先生の本を読んでいたら、もっと上手に化けられたかも。あいにく母は人に化ける才能に絶大な自信を持ってましたから。それが成田空港でキツネに正体を見破られ……自惚れって怖い。残念です」
 母の最期はマヤには思い出したくないことだろう。
 谷はまた、話を替えた。

「いまのきみの姿だけど。何か参考になったものが? ポスターやグラビアのモデルさんとか?」
「本に掲載されてた先生のプロフィール写真。この人が理想とするような人間の女性ってどんなだろうと思いながらじっと見つめてたら、こういうイメージ湧いてきちゃって」
「いいところ突いてる」
 ずばり、好みのタイプだ。ずいぶん前から知り合いだったような、懐かしささえ感じる。だからこそ大勢の応募者の中から惹きつけられたに違いない。
 マヤは、谷の耳元で囁いた。
「ほんとうはもっと大人っぽい感じになりたいけど、実年齢を飛び越えて姿を変えるのは今のわたしには至難なので。思い通りに化けられないのが、とても残念」

「実を言うと。わたし、谷先生のお写真を見ただけでドキッ! とくるものがあって。思春期の頃は、きれいな人間の女性になって谷さんと寄り添いあう場面を夢想したものです。だから本が燃やされたとき、もうショックで……」
 谷の歌曲だったら、こんな歌詞が続くところだ。
「もう、本なんかいらないよ。ここにぼくがいるじゃないか」
 殺し文句になりかねないので、さすがに口に出すのは自重したが。




†             †             †




 それから谷は堀井マヤを自宅に住まわせ、みずからをアイドルに仕立てるよう手ほどきしてやったという次第。(表向きはだ。)
 最終選考を通過したアイドル候補たちは谷プロの実習生として事務所が用意する寮に住み、一定期間の教育実習を受けるのだが、マヤは別枠だった。人間の女の子たちと同居させるわけにいかないし、研修も個別に受けてもらう必要があった。

 谷プロにとってリスクの大きな商材だが、谷の決意は固かった。




( 続く )




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