「豆腐男」
――べちゃべちゃげろげろ――


ギャグ仕立てのホラー。もしくは、ホラー仕立てのギャグ。
ずっと以前、「木下ぺーすけ」という別名でリレー小説として
投稿したものをまとめ、手を加えました。




 それは奇怪な光景だった。
 四十の男が深夜の決まった時刻に来店し、その日売れ残った豆腐ばかりを買っていく。ちなみに、四十というのは年恰好のことだ。男の人数ではない。

 どんな男なのか?
 容貌魁偉たるわけではなく、怪しげな風体もしていない。
 丁寧に刈り揃えられた頭。清潔できっちりした会社員風の身なり。
 だが、どこかぎくしゃくした歩き方。レジで応対されるときの物言いもしゃちこばった「ですます調」で通し、打ち解ける隙のないものだった。

 終日営業のコンビニ「ドラッグ24」に勤める朝霞カスミ(あさか・かすみ)はある日、まだ二十代の若さの店長を前に、当然の疑問を口にしてみた。
「あの人、毎日あんなに豆腐ばっかり買い込んでどうすんのかしら?」
「決まってんだろ。食べるのさ」
「食べるって……やだ、こわ〜い」
「おまえだって豆腐は食べるだろ」
「食べるけど、前の日の売れ残りじゃ、いや」
 しかも、この店の。とまでは言葉に出して言えない。

 カスミも以前、男が買うのとおなじ銘柄の豆腐を、残業のご褒美に店長から分けてもらったことがある。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 いかにも見栄えがよく、味もよさそうだ。
 すっかり騙されたカスミだが、口一杯に頬張った途端、味覚機能が急停止、噴き出しそうになった。
 まずかったのだ……たとえようもないくらい。
 一丁十円でも金輪際求めようという気になれるものではない。
 それがあの男は、まるでそれだけが目当てのようにやって来ては、見切り品コーナーに並べられた数だけ、多い時で五丁から七丁もの賞味期限ぎりぎりになった『美味い豆腐』を買い込んでいく。

 そういえばこの男、豆腐にかぎらず、売れ残りの商品しか買わない。
 賞味期限が過ぎ、半額になったパンや弁当、めん類、菓子や果物、乳製品に卵……間違っても、普通の値札が付いた品物を選びなどしないのである。
 男の買い物はこんな具合で、いつもカゴいっぱいの品物をカウンターに持ってくるくせに、払われる代価は驚くほど低額なのだ。
 カスミにはこんな仕方の買い物は無理だった。ある意味、男には一目置かねばならない。

 店内での男の態度には緊張感があった。切迫感と言い換えてもいい。
 パチプロが店中の台の釘をチェックする性急さで、安値札の付いた品はないかと目を光らせながら陳列棚の間を歩きまわり、店内一周してしまうのである。
 普通の客なら、コンビニごときに並べられた商品をこうまで真剣な眼差しで追ったりはしない。
 なんというか、買い物を楽しむという余裕がまるで見られないのだ。

「万引きやってんじゃねえのか?」
 ついに不審に思った店長が、防犯ビデオで男の店内での行跡をチェックしてみても、法的に逸脱した振る舞いを確かめることはできなかった。
 してみるとあの男は、店にそれなりの利益をもたらす客、それも常連の客ということになるだろう。
 ただ、毎夜日課のように同じ時刻に訪れては、豆腐をはじめ見切り価格の品物ばかりを漁っていくところが常人と隔たっているのだった。






 カスミは、繊細な眉根の皺ひとつまで計算された愛らしいつくり笑いと、本音を出したときの子供っぽい、庇護欲をそそる無邪気さとで男どもに受けのよい娘だった。
 二十歳に達していたが、体つきも声もしゃべり方も、なお十代の少女のように見えた。
 甘えが抜けきらず、なにもかもを、立場が上の者の指示にまかせなければ安らげないところがある。
 当然、恋を語る相手も、自分より人生の場数をこなした先達として導いてくれる存在でなければならなかった。

 応募のとき、こんなカスミと対照的に、受けた教育も立派なら職歴も豊か、受け答えがはきはきしており、しかも体力にも勝る、要するにしっかりした感じのする娘も面接に来ていた。
 普通の人選の尺度なら放ってはおかれないはずだが、そちらのほうは採用にはならなかった。
 小さいながら我が城の主でありたい店長氏にとって、かような従業員では優秀すぎて頭が上がらぬことになり、具合が悪かったのである。

 こういう男には根本的な経営感覚が欠落している。
 だから、店の売り上げはあまりよろしくなかった。周辺に一軒だけのコンビニエンスということで客足は確保されるものの、将来性は閉ざされていた。
 店の切り盛りは店長のほか、アルバイトのカスミ一人きりで間に合わせられたのだ。

 ところでカスミは、近頃めずらしい、うれしいときには慎ましやかだが、怖い場面では思いきり大げさに叫び立てる娘だ。
 そんな彼女がある朝、店の前のゴミ箱を掃除しようと外に出たところ、おぞましいものを発見してしまったのである。
「きゃーーっ!」
 カスミは、すくみ上がるという反応を示したばかりか、甲高い悲鳴までを上げ、驚きの感情を店内に伝えた。ひとりではこの衝撃に耐えられなかったのだ。
 店長がすっ飛んできた。
「なんだ、なんだ?」
「入口、入口のところ……」

 おお! 店からすぐ出たところに、なんと嘔吐物が、それも人間の嘔吐物がぶちまけられている。目を覆いたくなるほど大量にだ。
「あれあれ、きたねえなあ。どっかの酔っ払いがやりやがったんだな」
「ちがう。オヤジ……あのオヤジよ。毎日、豆腐ばっかり買っていく」
「あのオヤジのゲロだって、どうしてわかる?」
 一目でわかる。
 おぞましき吐瀉物はすべて、人の口を通過し、いったん胃袋に滞留したとおぼしき豆腐のカケラばかりによって成り立っているからだ。

 だけど、あの男はなぜ? なぜわざわざ、店の前まできて嘔吐していったのだろう?
 疑問がカスミの頭をよぎったとき、今度は、ゲロよりもっと恐ろしいもの、ゲロをぶちまけた男そのものが視界の中にあることを認めねばならなくなった。
 向こうの薄暗がりに潜み、こちらをうかがう気配がする。
 ふたたび盛大に悲鳴をとどろかせた。
「きゃーーっ!」
 彼女はわれ知らず、店長にしがみついた。
「どうした?」
「あそこに……豆腐男が」
「いないじゃないか」
 店長の胸に伏せていた顔をカスミが恐るおそる上げ、目を凝らしてみると……。
 たしかに豆腐男は消えていた。






 カスミの見間違いだったのか? そんなはずはない。現に、あの男にしか吐くことのできない代物がここにある。
 店長はいやそうな顔でそれを処理しながらも、とくに切迫した脅威は感じていない様子だ。店長にはもっと危機意識を持ってもらいたかったのに。
 カスミは、豆腐男の異常性を訴えずにいられなかった。

「あの人、変よ。ぜったい、変。もう、妖怪かエーリアンだから」
「ただの客だよ。おとなしく買い物していくだけの」
「でも、それ……」
「おとなしくゲロしていっただけだろ。きっと胃の調子が悪かったんだ。こんなところでやっちまい、決まり悪くて逃げたのさ」
「お店の前なのよ。そんな盛大に吐いちゃって、だまって逃げたら困るじゃないの」
「今度、言っとくよ」
「もう、お店に入れないで」
「もう、よせよ」
 店長がこうも常識寄りな見方をするのは、きっと自分が狙われてる実感がないからなのだろう。いい気なものだとカスミは思う。

「なんだか怖いのよ。あの人、わたしを変な目で見るの」
「どんな風に見るんだ?」
「わたしに話しかけたいけど言いだせない、もっとそばにいたいけど理由が見つからない、いつも残念そうに店を出ていくの」
「男の客はみんな、おまえの前じゃそうだぜ」
「あの人だけ、変なところがあり過ぎる」
「おまえの気の回しすぎだよ。ちょっとばかり内気なだけさ」
「でも……あれは、わたしを自分のものにしたがってる目なのよ、自分だけのものに。ピンとくるの」
「あの客がか? そんな目でおまえを見るなんて想像もつかねえや。もっとも男ならみんな、おまえを自分のものにしたいとは思うだろうけどな」
 店長の言葉に、カスミはハッとした。
「店長も、そうなの?」
「ピンとこなかったか?」


 それから、しばらく。
 カスミの日常は、店長とのことを除けば、前と変わらず過ぎていった。
 豆腐男の異常な日課にも異状はみられず、いつも通りに来て、いつも通りの品を買っていくことの繰り返しだ。
 ただ、男がカスミを見る目が尋常なものでなくなってきたように感じられる。ますます。
 なんだろう。カスミの体のサイズを目測しているのではと思えて仕方がない。それもいやらしい目ではなく、さめた実務的な目で。






 台風がくる。
 かなり強力なやつで、この地域には川の氾濫や土砂崩れに備えるよう警報が出ていた。
 「ドラッグ24」も昼間は、食糧や防災品を買っていく人の出入りが多かったが、夕方を過ぎ、カスミの夜勤がはじまる頃には客足はパッタリ途絶えた。

 日が沈み、風雨がいっそう強まったとき、店長の携帯に着信が入る。
 緊急で重大な用件なのはやり取りの様子からわかった。
 店長はカスミに恐ろしいことを言い出した。

「俺は出かけてくるぞ。店番たのむ」
「待って。ひとりにしないで」
「オフクロが癲癇(てんかん)でな、泡吹いてぶっ倒れちまって、看病しなけりゃなんないんだ。朝には帰るからよ」
「いや。いやよ、行かないで」
「俺がいなくたって、ヘコムの警備システムがしっかり守ってくれるだろ?」
「でも、でも……やな予感がする。ひとりでいるとき、豆腐男がきたら……」
「大丈夫だよ、豆腐男なんか。毎日おなじ時間におなじ格好で来て、ただ豆腐を買っていくだけじゃねえか」
 それが不気味だというのに。

 店長は車で行ってしまった。
 カスミは嵐の中、ひとりきりで店番をすることになった。
 外では、暴風と豪雨とが容赦なく荒れ狂う。
 店の中は静かだった。
 お客はまったく、いない。
 時が過ぎていく。

 そして。
 ついに、男はやって来た。
 いつもの時刻。いつもの風体。いつもの態度。
 ただ、今夜だけは違うものがひとつ。とびきり大きくて頑丈そうなスーツケースを携行している。
 旅行に出かけるのだろうか? そんなはずはない。では、台風から避難を? そうかもしれない。すでに、山沿いの地域には警報が出された。
 非常用の食糧でも買いだめする気なのか。

 いつもと違うのがもうひとつ。店の中での振る舞いだ。
 日配品の売場には向かわず、いきなりカウンターに直行してくる。
 まっすぐ、こちらに。
 男は、キャスター付きのスーツケースを重そうに押して進みながら、レジの前まで来た。
 しばし無言、なんの感情の動きも読みとれない顔でカスミを見つめる。

「あ、あの……」
 カスミが辛抱できなくなりもの問うのを待ち受けていたかのように、男はおもむろに口を開いた。
「豆腐を返しにきた」
 いつもと口調が違う。「ですます」調を廃している。
「は?」
「返品すると言ってるんだ、豆腐を」
 男は、スーツケースのファスナーに手をかけた。
「これを見ろ」

 うぐっ!
 ケースを少し開けただけで、吐き気をもよおすような、ほとんど物理的打撃と変わらない強烈な臭気が鼻腔を突き刺した。
 中には視覚的にも強烈なものが詰め込まれている。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 何十、もしかしたら何百というパックの数だ。すべて、げろげろに腐乱し変色するという変わり果てた姿。容器も多くが破損し、充満する有毒なほどの悪臭が湯気となって立ちのぼるようだった。
 じゅくじゅくじゅく……泡立つような、小さくかき回すような音がひっきりなしにするのは何だろう?
 あまりのものを見せられ、両手で鼻と口とを覆いながらカスミは目を疑った。

 男は、これまで買い込んだ豆腐をすべて腐らせ、スーツケースに詰めて店に持ってきたのである。
「数はそっちで確認しろ。何百個もある」
 彼女は言葉を発することができなかった。
 なんという!
 豆腐男の心の状態をはっきりとさらけ出す出来事が今、店の中で起こっていた。
 しかもカスミは、たったひとりでそれと向き合わねばならない。

 これほどの狂おしさを呈しながら、男の顔からも声からも感情の動きはまったくうかがえない。いや、顔や声に感情を表わさないだけなのだ。
 その挙動には思うことが率直にあらわれていた。
 男はスーツケースから見るもおぞましい、かつて食品だったものをつかみ出すと、カスミの前に差し出した。
 パックの中の豆腐はいまや、かたちをとどめぬほど腐敗し湧きさわぐ無数の蛆の巣窟と化している。
「受け取れないのか?」
 彼女はまったく、固まってしまっていた。
 気絶をせずにいるのが不思議なほどだった。
「返事をしたらどうだ」
 豆腐男はあくまで、自分の要求がまったく正当であるのを疑わない態度だ。
「この店の豆腐だぞ。この店で引き取るのが筋だろ」

 かくなるうえはカスミといえども、生き残るための知恵が回りはじめる。
 そうだ。自分ひとりでなく店長もいるよう芝居して、店長を呼びに事務所に引っ込んだ振りをしよう。すぐに事務所のドアを施錠してしまうんだ。それから警察に電話すればいい。
「少々お待ちください。いま、責任者を呼んできますから」
 カスミはこわばった表情のうちにできるかぎりの愛想笑いをし、平常な対応をよそおった。
「店長。店長〜。いないのかな? あ、店長! いま、お客さまが……」
 彼女は架空の店長に呼びかけつつ、豆腐男と向き合ったカウンターの立ち居地から十歩ほど先の事務所の入口へと歩きはじめた。
 だが。
「おい、行くな」
 男はたちどころに彼女の意図を見透かしたらしく、妨害の挙に出てくる。
 ずっと店を監視していたに違いない。店長が出かけたのは承知の上なのだろう。

 しかも、豆腐男がカスミを行かせまいとするやり方はまことに効果的だった。
「ほら、返してやる」
 そう言って、カスミの前途に豆腐のパックを放り投げたのだ。
 それは事務所の入り口付近にぶつけられ、破砕した。
 中からはゲロにまみれたような特大の蛆虫がうごめきながら飛び散り、床をごぢょごぢょ這いずりまわる。
 カスミは悲鳴をあげ、飛びのいた。
 男はさらに、何個も続けてパックを投げつける。
 事務所に通じる床面は吐瀉物のような豆腐の破片、うにょうにょ身をくねらせる蛆虫で足の踏み場もなくなった。

 もう、いられない!
 事務所への行き場を閉ざされたカスミは脱兎のごとく瞬発し、今度は外へ逃げようとするが。
 豆腐男は行く手をふさぐように回り込み、カスミに逃げ道をゆずらなかった。
 そして、両手に持った豆腐を突きつけるのだ。
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
「引き取れよ。返品だぞ」
 カスミははじかれたように後ずさりした。
 豆腐男はにじり寄ってくる。
「苦労して持ってきたんだぞ。拒むなよ」

 カスミは背を向けて、店内のほうへ逃げた。
「なんだ、その態度は?」
 男はすかさず背後から、豆腐を投げつける。
 飛んできた豆腐のパックがカスミの肩ごしに前方の床に落下して砕け、恐るべき中身が四散した。

「受け取らなくても、置いてくからな」
 男は投げた。
 また投げた。
 スーツケースの中から無尽蔵に腐った豆腐を取り出しては投げているかのようだ。
 あたりかまわず、無計画に投げまくるのではない。カスミのいるところを狙うようにしてだ。

「豆腐を返すぞ!」
 べちゃっ! べちゃっ! どろどろどろ……。
「きゃーーっ!」
 豆腐の容器が前途で破砕するたびに、カスミは飛び上がった。
 見るのも嫌だし、飛沫がかかるだけでも怖気をふるう。
 踏まないよう、逃げ道を変える。

「豆腐を返してやる。受け取れ」
「きゃーーっ! きゃーーっ!」

 豆腐男はスーツケースを引きずりながら、追ってくる。
「豆腐だ、豆腐。豆腐を……」
「やめてーーっ!」
「なぜ逃げるんだ。引き取れよ。店の仕事だろ」

 店も仕事もなかった。
 かくなるうえは、逃げる以外にない。
 豆腐男はさらにあとから追いすがる。

「ほら。豆腐だよ」
 平静な顔、きびきびした足取りでどこまでも追いかけてまわる男。
 なかば錯乱しつつ逃げ惑うカスミに、腐乱しきった豆腐を投げつけながら。

 豆腐を避ける。
 びしゃっ! びしゃっ! うじょうじょうじょ……。
 踏まないよう逃げる。

 男は店内のつくりをよく知っていた。
 「豆腐弾」でカスミの退路を阻み、出入り口はもちろん事務所にもトイレにも逃げ込ませはしなかった。
 男はこれほどの怪腕があったのかと驚かされる力みようで重量のあるスーツケースを引きながら陳列棚の間を縫うように追ってきて、恐慌のうちに通路でうろつき怯えるカスミに向かってなおも豆腐を投げつける。
 げろげろに腐敗し、肥えた蛆が湧きさわいでいる豆腐を。

 カスミは逃げも隠れもできぬまま、店の中をしだいに隅のほうへと追い込まれていく。

 だが、外に逃げたとしてどうだろう。
 コンビニの背後は山地で、勾配のきつい山道を追われながら走っても無人のお寺しかなかったし、正面の住宅地に通じる橋はおりからの台風で川が増水し水没状態、そこからは行き止まりだ。
 店長も帰ってこられない。
 警察を呼べたとしてもすぐには駆けつけられまい。
 ヘコムの警備システムもまるで役に立たない。
 今の彼女はまったく孤立無援の状態にあったのだ。

 かくして。壁際に追い詰められたカスミには、まったく逃げ場がなくなった。
 絶体絶命だ。
「はあ、はあ、はあ……」
「これで、買った豆腐は全部、返品してやった」
 もはやカスミは泣きじゃくるようだった。へなへなとへたり込むしかない。
「あ、あの……お代金は全額、お返ししますから……どうか……どうか、お引取りを……」
「金? いらんよ」
 あれだけ動きまわったのに、豆腐男の呼吸はたいして荒れていなかった。態度はあくまで平静だ。
「代わりに、肉を持って帰るぞ」
 肉?
 カスミは恐怖に顔面を引きつらせながらも、きょとんとなるほかなかった。
「俺はカバンにいっぱい豆腐を持ってきた。今度は、カバンいっぱい肉をもらって帰る」
 そんなこと言われても……。この店では肉製品といえば、ウインナやジャーキーくらいしかおいていない。
「あの……うちでは、お肉は……」
「いいから、肉をよこせ」
 まったく感情を外にあらわさない顔で、豆腐男が迫る。
「ここにあるじゃないか。大きな、生きてる肉が」
 生きてる肉って……。
「おまえだよ。来るんだ!」
 ついに豆腐男は本性をあらわにし、カスミにつかみかかってきた。
「ぎゃーーーーっ!」
 カスミにできたのはジタバタ暴れ、相手が目的を遂げるのを遅らせることだけである。
「おまえを、この中に詰めて帰る!」
 力ずくで思うがままにされた状態のカスミはとうとう、スーツケースに! あのスーツケースの中に! 頭から突っ込まれた!
「ぐえっ! ぐえーーっ!」
 かくなるうえは、嘔吐とも悲鳴ともつかない、しぼり出すような絶叫として恐慌ぶりを表現するばかり。


 そのとき。
 異変が「ドラッグ24」を襲った。
 豆腐男ですら予想できなかったこと。
 増水した川からあふれ出した水が濁流となって、洪水のように店めがけて押し寄せてきたのだ。
 建物を呑み尽くすほど大量の水が、ガラスの壁面をぶち破り、ドワーーーッとなだれ込んだ。
 一瞬のち、停電となり照明がすべて消えた。
 浸入した水の流れは反対側のガラス壁をも押し割るほどの威力を示し、店内を急流のようになって通り抜けていく。

 暴力的な水圧に、重くて頑丈な陳列棚がまるでドミノのようにはじかれ、押し流され、食品や雑貨類を大量に撒き散らしながら激しくぶつかり合った。
 豆腐男がこの期におよんで、どんな反応を示したかはわからない。
 声すら発した気配がなかった。
 カスミはといえば。ほぼ全身をあのケースに収納されるという恐怖の絶頂にあったのだから、何が起きたかどころではなかった。
 とはいえ。豆腐男の身をひとたまりもなく吹っ飛ばして押し流したに違いない溢水の打撃を、同じ場にいながらカスミのほうは被ることから免れていた。
 幸か不幸か、体を逆さまに詰め込まれた堅固な造りのスーツケースが防具となって、水流による強烈な破壊力を緩衝する役目を果たしたのだ。
 ケースはびくともせずに、カスミの体をくわえた格好でどんぶらこと浮かび上がった。
 しかしそのままでは、濁流に流され、反対側の出口から持っていかれてしまう。
 僥倖にもスーツケースは、水流で押しやられた陳列棚が寄り合ってバリケード状態になった上にポートが座礁するように乗り上げ、横倒しになった。
「グエ! グエッ!」
 足場の感触を得るや無我夢中で蛆虫地獄から這い出た彼女は、見るもおぞましいスーツケーツを蹴り飛ばすと、自分のおかれた状況をもはや驚きとも感じず――豆腐男に誘拐される以上の驚きがあろうか――水流の激しさに必死で抗いながら、半端な将棋倒しのように列をなして傾き、積み重なった商品棚の骨組みに華奢な両手と両足で懸命にしがみつく。
 髪も着衣も濡れそぼり、あのカスミがと思うほどの凄い形相で踏ん張り続けた。
 台風が荒れ狂う中、それも真暗闇の破壊された店内で、ただひとり。






 どれほどの時がたっただろうか。
 カスミは、列なって傾いた商品棚のうち一番傾きが少ないものの上、かろうじて身をおけるスペースでへばりつくように、まるまった格好で横になっていた。
 まるで自分が水浸しで売り物にならない品物のひとつに成り果て、見切り品として陳列されたみたいだ。
 ずぶ濡れの身が冷えきって、ガタガタ震えが止まらない。
 それでいて全身が麻痺したように、動くのが億劫だった。

 気が付けば、建物の外では、あれほど狂おしかった豪雨と暴風もしだいに鎮まりつつある。
 出水は引く気配こそないものの、水かさがこれより増す恐れもないようだ。
 心なしか、空も白みかけている。
 豆腐男の姿は、どこにも見当たらない。
 あいつは溢水の最初の直撃に呑まれ、そのまま外に運んでいかれたらしい。
 ともあれ最大の脅威は駆逐されたのだ。
 カスミは、こんな目に遭った自分はいったい災難に見舞われたのか幸運に恵まれたのかどっちだろうと、なかば朦朧となった頭で考えた。
 なお救助が必要な状況なのは間違いない。
 スマホがあれば助けが呼べるし全国的な注視の的にもなれるのに、あいにく蛆虫豆腐の騒ぎで失くしてしまったし。あったとしても、こんな惨めな姿を自撮りして日本中に配信するなど思いもよらない。

 だいたい、今夜起きたことを説明しても信じてもらえるだろうか。
 自分ですら身に起きたとは認めがたいことなのに。

 それにしても、あいつ!
 カスミの脳裏には怒りの感情とともに、店長の顔が浮かんだ。
 命に関わるとは思えぬ母親の看病をカスミの身を気遣うことより優先、「大丈夫だよ、豆腐男なんか」とへらへら笑うように出て行き、果たして彼女を死ぬほどの危難に追いやった大馬鹿野郎!
 張り倒してやりたくてたまらなかった。
 前に跪かせ、頭をつかんでこの泥水に押し付け、涙声で詫びさせなければおさまらない。

 カスミはふいにクシャミの発作をもよおし、ブルッと震えた。
 まあ、いいけど。
 今はただ、暖かくて安全な場所、家に帰ってぐっすり眠りたい。

 そのとき。
 気のせいだろうか。何かが泳ぎ着くように、バリケードのようになった陳列棚の連なりにドスンとぶつかる鈍い衝撃を感じた。
 何なの?
 闇の中、目を凝らしてくまなく見たが、誰もいない。
 カスミが安堵の吐息をついたとき、どろどろに濁った水面からいきなり男の手が伸び、カスミの足を握りしめた。
「ぐえーーっ!」

 ついで男が水面から頭を出し、馴染んだ顔と声とがカスミの目と耳をとらえた。
「げはあ、げはあ……俺だよ、俺」
「店長!」
「おまえを放っておけなくて……増水で通行止めになった橋を無理に渡ろうとしたけど、車が流されちまってよ……必死で泳ぎきってな、もう命からがらだったぜ」






 台風は通り過ぎ、氾濫した川も穏やかさを取り戻した。
 水浸しとなった店内は、陳列棚も商品もメチャメチャな有様で、こんな狭かったかと驚くほどのスペースにずぶ濡れの廃品を雑然と放り込み積み上げたようで、多くの人が買い物や用足しで馴染んだ場所とは思えなかった。
 豆腐男が暴れまわった痕跡などすべて洗い流されている。
 男がどうなったかはわからず、身元もついに謎めいたままとなった。

 やがて。
 保険は下り、店は修復された。
 カスミも職場に復帰した。
 初夏には、店長と式を挙げる予定だ。

「やだ、また売れ残ってる……」
 カド印の『美味い絹豆腐』と『美味い木綿豆腐』。
 あいかわらず客に不評のまま、見切り品売場で不動の地位を占めていた。
 もう買っていってくれる客もおらず、売れ残れば廃棄されるだけなのだ。
「店長。このメーカーの品物、もうやめようよ」
「おまえもそう思うか?」
 豆腐男の事件からわかった大切なものがあるとすれば、愛の美しさや女性の自立などではなく、売れないとわかった品はもう売らないという踏ん切りのよさかもしれない。



†             †             †



 しかし。
 豆腐男の件が落着後しばらくすると、今度は納豆女が……。

 それは奇怪な光景だった。
 三十がらみの女が早朝の決まった時刻に来店し、その日期限切れとなる納豆ばかりを買っていく――。




( 完 )




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