地下鉄サリン事件と二・二六事件



 なぜ日本の世論は、麻原以下の偉方らが逮捕され、教団中枢が瓦解したのちもなお、オウム真理教を目の敵にするのだろう?
 それは、あの教団が天皇制国家のパロディを演じたという理由ばかりからではないだろう。

 好むと否とに関わらず、オウム的なカルト教団は、前世紀末の日本から立ち上がった主要な産物である。

 日本のメディアは、自分たちの社会が生み出した、自分たちの時代を体現するオウムを、なんとか自分たちから差別化し、あたかも異なる文化体系からこぼれ落ちた仇花のような存在に仕立てるべく汲々とする。
 戦後のドイツ国民がナチズムを国家の招かれざる圧政者であったかのように描きだし、しつこく糾弾を続けるようにだ。


 実は、日本を乗っ取ろうとしたオウムは日本の運命の予告劇を演じてみせたのだ。ちょうど、戦前の二・二六事件がその後の日本帝国の末路をあぶり出したように。

 気の短い下級将校らが、決起部隊を率いて帝都を占拠、国体を一新させようとしたあのクーデター未遂劇のあと、首謀者らは処刑され、世論は彼ら逆賊に容赦ない態度を見せたものだが、それで日本のさらなる右傾化を食い止めることができただろうか?

 帝の寵臣を殺害し、首都を軍靴で踏みにじるのは残虐非道でも、大ニッポンをあらしめる強兵主義自体が道義的に悪だとは、当時はだれも思わなかったからだ。

 今のオウム真理教をめぐる社会状況が根底で、これと酷似する。

 もっとも、麻原教祖が東京を毒ガス攻撃したから、将来は再び、おなじような狂信集団、靖国奉国教に操られた国家主義者が世界を相手取り化学戦争をしかけると言うつもりはない。
 それどころか、日本による脅威は今後、いかなる国に向かっても軍事侵攻というカタチで発現されることはないだろう。

 しかしながら日本は、およそ八十年代の初め以来、国民全体の意思として文化面での進歩を停止させた状態であり(シラケ世代の退潮以降、巷に蔓延する光景は、クリスタル現象でもバブル景気でもない、成長を拒絶した集団に見られる、まぎれもない精神疾患の症状なのである)、これが今後も続くとすれば、残余の国々が遂げつつある建設的努力の方向とはしだいにズレを拡げさせていくことになろう。

 長期的に見れば、そうした精神状態の国民は人類の総体的進歩の障害以外のものとはなり得ない。日本は足手まといとはいかぬまでも、残余の国々の発展にきわだったありようで貢献することはない。

 この日本国民なる巨大な集団の間でのみ健常とされる精神文化的な遅滞は、大東亜戦争が太平洋諸国にあたえた損失以上のものを、地球種全体があらゆる分野で今世紀中に成し遂げるはずの収穫高から目減りさせてしまうかもしれない。

 日本はそうしたやり方でも、世界に被害をあたえ得るのである。



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