アメリカ国民が本気で立ち上がったことで短期決戦案が挫折したのを悟りながら、 なぜ山本五十六は勝ち目の失われたはずの戦いを続けたのか? おそらく彼は、開戦当初の戦略的好況が続く中、 「勝利をつなぎ続ければうまく行くのでは」という思いが捨てきれなくなったのでしょう。 それで、早期講和はもはや不可能と頭で理解しながらも、 賭博師的な期待に引きずられたまま、太平洋での破局に進んでしまったのではと…… ひとつには、 自分の推し進めた戦略で祖国を決定的な窮地に陥らせた、 責任と呼ぶには重すぎるものの重圧により判断力が麻痺していたのかもしれません。 しかし、そうした強気もミッドウェー敗退までのことで、 以降は、もはやなにをしても勝てないとの思いに取り憑かれたのか、 軍人らしく立派に死ぬ行為そのものにこだわり、 連合艦隊ともども自暴自棄な、米軍陣地への突撃を繰り返したとしか思えぬフシがあるのです。 ブーゲンヴィルでの無謀な前線視察中、 わざとのように危地に身をさらし、待ち受ける米軍機の餌食となったのは、 負け戦への責を戦死によって贖おうという、彼なりの「ハラキリ」であったかもしれません。 それは、自分が企画し、強引に認可させた真珠湾奇襲計画が不手際に終わることで 短期決戦案が挫折してしまったことへの自責の念だったかもしれません。 結局、山本五十六は、大日本帝国を救う立場にある者として適任者ではありませんでした。 この時局の軍司令官に不可欠だったのは、 彼が発揮した単発的な投機的冒険性(しばしば「男らしさ」と混同される資質)ではなく、 なんとしても生き残り、祖国を守るため戦いぬくというしぶとさだったと思います。 粘り強く持ち堪える条件を整え、 百に一つでも勝利の可能性があれば、すかさず動いて試してみるという、 軍人としてもっとも重要なことを怠っていた気がするのです。 でも山本にとっては、 開戦早々に、米国民を本気で怒らせたことを知らされ、 短期決戦で講和をもたらすという自分の構想が破綻したとわかった以上、 「なにをやってもダメ」なのであり、勝利の望みなどまるで断たれた状況だったのでしょう。 |