市民社会の義務とは?



 小林よしのりの「戦争論」では、「国のために戦ってこそ、はじめて市民の資格が得られる」との主張をぶち上げた箇所がある。
 古代ギリシャの市民社会がそうだったから、現代の日本人もそうあらねばというわけだ。
 この論法でいけば、戦争に反対する国民はすべて非国民にされてしまいかねない。

 もちろん、小林よしのりの言うことだから、それは間違っている。
 戦うだけなら、愛国者どころか給金が目当ての外国人傭兵にもできる。
 しかも多くの場合、傭兵のほうがずっと巧みにやってのける。

 だから市民であるとは、戦うか否かを決め、戦いを支えることではあっても、血を流すことそのものではない。
 市民の義務とは、百人の敵を倒した傭兵になくとも市民一人一人には要求されるもの。
 それは、近代国家を運営する一員としての責任を持つことではないだろうか。

 自分の国も世界の中のひとつの国であり、国民として国を誇りにしたければ、その過去の咎までをも受け容れねばと悟ったとき、人は初めて、ひとつの国の市民の資格が得られるのだ。

 こうした基準を適用すれば、「戦争論」にあまりにも影響され、小林よしのりの門弟を自称する者どもは疑いもなく、非国民そのものであろう。
 彼らは、他国を貶め、自国の過去を正当化するばかりで、したがって国民としての義務をまるで果たしていないわけだから。

 自国のやったことをなんでも自分側に都合よく解釈して悦に入る。
 「日本人である」とは、そんないい加減なことではないはずだが。



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