一九六十年代末、大学紛争たけなわだった頃。 徒党を組んで行進し、「大人たち」に抗議する「子供たち」は、本物の子供でも見抜けるような、こじつけとしか思えぬ大義名分をがなり立てていた。 彼らは、日本に繁栄をもたらしたアメリカとの同盟条約が延長されることに反対し、自分たちが安楽に人生を過ごせる豊かな社会を築いてくれた親の世代を宿敵に見立てたのだ。 「(俺の体内に)貴様のような悪党の血が流れているかと思うと、恥かしいわい」 「おのれ、親に向かって」 これが、この時代の構図をとらえた劇画の台詞である。 学生活動家のほとんどは、暮らしに窮したのではないし、圧政による迫害を被ったのでもなく、ただ腹ごなしのため機動隊を相手にゲバ棒を振りまわしていただけだった。 それはまさにブームとなった現象だが、今の時代の「愛国マニア」が「自虐史観」を攻撃する構図となんとよく似ていることだろう。 「愛国マニア」たちは、往来でゲバ棒を振りまわす覇気などないにせよ、仲間同士で群れ合い、建設的な意見による交流がおこなわれるべきインターネットでひたすら破壊的な暴言ばかり吐き散らかしているのだ。 内弁慶なテレビゲーム世代による親世代への反抗ともなれば、こういうカタチとなって現われるのかもしれない。 彼らには、それぞれにバイブルを見出せる。 安保闘争の頃の「戦争を知らない子供たち」と世紀末の「ゴーマニズム宣言」。 どちらも、世の中を知らない未熟者が勝手なことばかり書きまくった本にほかならず(だから、おなじような連中から受けた)、その時代の愚かしさが濃縮されたものという点で、双子のようによく似た二冊。 二人の著者は、本以外のことではけっこう社会に得をもたらしたが、本が原動力となって社会を変えるまでにはいたらなかった。 結局、北山修が数曲の美しいメロディーを残したように、小林よしのりは何人かの可愛いキャラクター(あの実物とまるで違う自画像ではない)を提供するだけで終わりとなるに違いない。 そして、ネット右翼らの政治姿勢的な極端ぶりと関わりなく、時代はバランスを保ちながら流れていき、やがて後続の世代から、若い頃のおこないについて審判を言い渡されることとなる。 「なんで、あんな馬鹿なこと言い張ってたの、お父さん?」
しかし、その歌詞や本の内容は、六十年代後期に学生闘争の渦中にいた若者たちの社会観と多くの点で通底している。 |