いわゆる愛国心について



 右翼系の人々は、自分だけに資格があるかのように、「愛国」という表現を好んで口にする。

 だがいったい、愛国なるものの対象とは?
 日の丸、君が代、皇族、国境、旧領土……もしかしたら彼らは、シンボルとしての日本を愛しているだけではないのか?
 それも、新しい日本から生まれたシンボルではない、半世紀前に崩れ去った大日本帝国から継承されたシンボルばかりを。

 日本を愛するとは、領土を愛することでもなければ、世間を愛することでもない。
 ほかならぬ国民としての自分を愛することだ。
 どの個人も、国を愛することをそこから始めなければならない。

 自分を愛するという行為に、ナルシズムやエゴイズムしか読み取れないとすれば、心理的に無理な抑圧をおこなっている証拠であり、独裁者バンザイの全体主義はそうしたゆがんだ心理が寄り集まって温床となることが多い。

 実際には、自己の生命を、自己の人生を大事にできない人間に、数多の自己によって成り立った祖国を良くすることなどできるものではない。
 祖国とはそのように自立した個人個人の集合体であるべきだし、祖国への犠牲を強要する人々に占拠された国など、愛国心の発露に値しない物理的な枠でしかなくなってしまう。

 巨大な実例がまさしく、戦時下の大日本帝国だった。
 一億火の玉、特攻、玉砕、集団自決……当時の日本人は、すべてが「愛国者」だっただろうか? 今現在の平均的日本人より、ずっと愛国的な人々ばかりで占められていただろうか?

 自分はそうは思わない。

 大戦中の日本人は、ただ死ぬことにのみ、潔く散ろうとすることにのみ狂的な情熱を捧げたのであり、祖国を守りぬくという本来の目的には天晴れなまでに貢献しなかった。
 同時代の八路軍やユーゴ=パルチザンのような持久力、後年ではヴェトナムのゲリラが圧倒的火力の前に発揮した、しぶとさ、粘り強さにまるで欠けていたのだ。

 当然のことながら、このような国民が示す戦いぶりの結果として、「神州不滅」なる壮語にもかかわらず祖国を救うことなどできはせず、大日本帝国は滅亡した。
 自分らの国を滅ぼしてしまうような民衆を「愛国者」などと呼ぶわけにはいかない。

 「一億玉砕」を叫んだ人々は、祖国を愛したのではないし、おそらくはじめから勝つ気もないまま、待ち受けるなにかへと突き進まずにいられぬ、あの戦争の原動力のひとつとなった巨大な集団的衝動に動かされていただけだったのである。

 そうした人々が寄り集まって行動を起こしても、カミカゼにせよ、万歳突撃にせよ、ただ犬死にしてみせる才能を発揮するだけでしかない。

 われわれは、イタリアは弱かった、フランスは弱かったと嘲り、日本軍の死を恐れぬ戦いぶりへの引き合いとする。
 だが、日本も弱かったのだ。
 敵の前に勇猛なありようで死ぬことばかりを渇望する軍隊に敵を追い払えるはずがないではないか。

 あるジャーナリストは、ドイツの電撃戦の前に敗れ去ったフランスの弱体ぶりについて、「フランスは戦わなかった」と評した。
 日本は勝とうとしなかった。

 これが、大東亜戦争についてのもっとも重要な事実である。



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