「自虐史観」という言葉を好む変わり者たち




「自虐史観」という言葉を好む人々のことは、私には永遠に理解不能だ。
自分の国のしたことはなんでも美化し肯定しなければ「自虐」だとレッテルを貼るような、幼児的なわがままぶりが本物の愛国心と等しく並ぶものとは到底思えないのである。

彼らの言い分はこうだ。
「とにかく、日本は正しい。戦争の目的は立派で、西洋人から亜細亜を解放する大義の戦争だった。戦い方も、捨て身の攻撃で愛国心を発露したみごとなものだ。敵国側はすべて間違ってる。彼らは、人肉食の野蛮人、差別主義者、卑怯者ぞろいなうえ、国際法無視の戦争犯罪者である」

残念ながら、まっとうな知性をそなえた大人の人間が同調できる内容ではない。
これでは、「自分の国はこうあってほしかった。いや、絶対こうなんだ」と決め付ける、少年漫画にかぶれた幼児の夢想そのものであろう。
未熟なヒロイズムを祖国に投影し、酔おうとするだけで、そもそも史観として成立していないのだ。

いやしくも歴史を公正に評価したいならば、国家とか民族といった自己の利害のからんだものとはできるだけ距離をおいて眺めるべきところなのを、「自由主義史観」とやらの信奉者はいきなり、自国のぶざまな部分を美しく塗り替えるというやり方で対処してしまう。
「日本人なら日本の過去をなんでも是認するのが公正」になるらしい。

彼らにとって日本史とは、みずから眺める対象ですらなく、隣人に自慢するためにだけ華美に飾り立てた門構えにすぎないようである。




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