「異世界は衰退しました2」


      



 打ち合わせは終わった。
 快挙をなし遂げた。
「さすが沖先生。やっぱり、基礎がしっかり出来てる人には安心してまかせられます。こちらが余計な口出ししなくても、望んだとおりの仕事をしてくれるんだもの」
 川上都貴子はかたちばかりのお世辞とは思えない褒め方をした。
 まあ、大物編集者からおだてられるだけのことはあるだろう。

 沖は、川上が持ちだしたありきたりな異世界ものの構想をベースに、魅力的な多くのアイディアを付け加えて原型をとどめないほど改変し、相手を納得させることができたのだ。
 これらのことを、喫茶店のテーブルで一時間ほどのうちにやってのけた沖はたしかに、凡庸な書き手には望めない並外れた才気を印象付けたと言える。
 新作は、ライトではあるがチープではない物語に仕立てられそうだ。

 なによりの成果は、書き上げたものを他者の名義でなく、こちらの所望する筆名で発表させてもらえるようになったこと。
 とにかくも 良野部軽(らのべ・けい)の代筆という恥辱からは免れたのだ。
 川上にも、沖栄一の本領がようやくわかってきたらしい。
 沖が流行に乗れないのではなく、時の流れに色あせない、時局と世代を超越した力量をもっており流行に乗る必要がないことに。

 いや、沖栄一の名義ではない。
 川上都貴子から「ラノベ界に現れた希望の星」と冗談交じりで褒め殺されたとき。
「いまさら、ぼくが現れても誰が期待してくれますか。それより……」
 そう前置きしたあとで、後から振り返ればとんでもない結果を招くはめになる申し出をおこなった。
 よかれと思うことをして地雷を踏んでしまったのだ。
「実は。ぼくを慕って弟子入りしてきた若い女の子がいるんです。その娘(こ)が書いたというかたちで売り出すのはどうでしょうか?」
「電話で応対してくれた可愛い声の人?」
「声ばかりか、顔も姿も可愛いんですよ。ぼくなんかの名義でいくより、ずっと受けがいいのではと思います」
「ふむふむ……ラノベ界に期待の新人をデヴューさせるわけですか」
 都貴子は、すでに若々しいとは言いがたい沖の容姿を値踏みでもするように眺め回してから、同調する答えを出した。
「良いお考えです。今度、そのお嬢さんを連れてきてください」

 帰路。
 沖は、まったく浮かれていた。
 アイリンの日頃の労に報いてやったわけだし、同時に恩をも売ったことになる。
(付け加えれば、沖の体面も保たれた。「あいつ、ラノベなんか書きやがって」と言われずに済む)
 ともあれ。
 これでますます、二人の関係は……。
 いや。それよりまず、アイリンの大喜びする顔が見たい。

 といっても。
 アイリンの勤務時間はとうに終わっている。
 家に帰っても彼女はいない。
 沖は直接、アイリンのアパートを訪ね、朗報を伝えることにした。
 アイリンの笑顔を見るのを明日まで待てなかった。
 あの娘の私生活を、普段の姿を垣間見たくもある。
 雇ったとき、彼女が自分の住所として伝えたところに行ってみよう。

 アイリンは今どきの女の子には稀有なことに、ケータイなるものを持っていなかった。
 アパートにも電話がないのだという。
 だから、こちらからは連絡のしようがない。
 そこまで不確かな素性なのに雇ってしまったのは結局、彼女の魅力に沖が負けたからという以外に説明の言葉がない。

 えーと。
 アイリンの住処は、東京都月並区御盥(おたらい)3-9-1024。
 沖は、グーグルマップを頼りに安アパートがひしめく雑然たる下町の路地を歩きながら、思いにふけった。
 いきなり訪ねたらどんな応対をされるだろう。
 無礼な奴、いやらしい奴、ストーカーなどと思われて拒まれないだろうか。
 そんなことはあるまい。
 彼女はこの自分を、好いてくれている。間違いなく。
 今のところは、愛読者のお気に入り作家への憧憬のような感情にすぎないとしても。

 目的地に近づくにつれ、前方にかなりの規模の霊園が見えてきた。
 逆に、人家はまばらになっていく。
 なるほど。こういう寂しい所なら家賃も安いだろう。
 アイリンの奴、こんなでっかい墓場のすぐ近くでアパート暮らしか。それも、ひとりぼっちで。
 夜中とか、怖くないかな?

 歩くうちに、沖の心には疑念が生じた。
 待てよ。この「御盥(おたらい)3-9」って……。
 御盥霊園(おたらい・れいえん)。
 門の入口に掲げられた看板の売り文句が沖の胸を揺さぶった。
 「入居者募集中 ペットといっしょに永眠(ねむ)れる分譲墓所」。

 集合住宅じゃない、ここの集団墓地の所在だ。
 霊園に隣接どころか。
 その敷地のど真ん中。
 「1024」も部屋番号と違う。げーーっ! 墓所の区画!
 ご丁寧にもこの霊園では、墓所ごとに番号が割り振られている。
 信じられない思いで、アイリンが住むはずの区画番号までたどっていくと。
 そこにあったものは……。

 おばあさんのお墓。
 それはいい。
 すぐ傍らで寄り添うようにたたずむ小さな墓石に刻まれた名前。
「愛鈴(アイリン)ちゃんのお墓」
 飼い猫の菩提を弔った場所に立てられた墓標である。
 なんだ、こりゃあ?

 愛しい人に会えると思って行ったら、とんでもないところに来てしまった……。
 あまりにも漫画等で使い古された設定を現実として突きつけられ、沖はもうどうしたらいいかわからなくなった。
 アイリン……おまえ、猫になって葬られてたのか……。
 いや、騙された。
 猫なわけがない。
 あの娘、人の住居として存在しない場所に家があると偽ったのだ。
 おまけに名前まで……ペット霊園の墓標から拝借したものだったとは。
 偽る理由があったのだろうか。
 住所を教えたくなかったのか、はじめから住所がなかったのか……。
 沖の家に来たときはまだ宿無しの状態で、正直に住所不定の身だと打ち明けるのはバツが悪かったのかもしれない。
 それにしたって。
 身が落ち着いたら、正しい居場所を教えてくれてもよかろうに。
 いや。アイリンが、沖を欺くような娘であるはずがない。
 それじゃ……いったい……おまえは何者なんだ、アイリン?


 折り悪しく、怪異な現象が沖を襲った。
 磁気による障害だろうか、グーグルマップが使えなくなったのだ。
 沖は人気のない大規模霊園の中で、迷子になってしまった。

 日はすっかり暮れていた。
 沖もすっかり途方に暮れ、迷路のように小道が入り組んだ墓地の中を、闇に包まれながらさ迷った。
 いたるところ樹木が生い茂って、視界がきかない。
 鬱蒼たる森の中に墓地を造ったような所ではないか。
 だだっ広いくせに木々に邪魔されて遠くが見通せないという、最悪の造成だ。
 よもや遭難などあり得まいが、これはつらい。

 困ったことに、沖のほかには誰も人の姿が見えない。
 なんて寂れた霊園だろう。
 日没の前頃から、通る人が誰もいなくなってしまった。日が落ちると不都合なことでもあるのか。
 途中、住職らしき僧衣を着た男とすれ違ったのだが。
 無愛想というか沖にまるで無関心な様子で足早に進むその態度に気後れして言葉をかけそこなった。
 こんな時刻にこんな所をうろつく自分が怪しい奴と疑われたのではと恐縮してもいた。
 それでも、やはり出口への道を訊かなければと思いなおして振り返ったときは、どこにも姿が見えなくなっていた。
 畜生、なんて速く歩きやがるんだ。


 そうするうち。
 夢ではないかと疑うものを目にしてしまう。
 求めていたものと望まなかったこととを同時に。

 アイリンがいた。
 幽霊でも猫でもない、生きた姿のアイリンが。
 そう、アイリンだ。あのアイリンが、アイリンが……見知らぬ男と二人っきりでいる。
 それも、若い、なかなか見栄えのする男と。
 何ごとか話し合ってる。
 いかにも外聞をはばかって、ひそひそつぶやき合うような口ぶりでだ。

 沖は木立に身を隠し、聞き耳を立てた。
 別に案じたような、相思相愛のカップル同士での会話ではなかった。
 もっと実務的なことで真剣に打ち合わせているといった様子だ。
 さながら、敵地に潜入したスパイ同士で情報交換するような。
 もしかしたら二人とも密入国したのではと思い至ったとき、男が耳を疑うことを言いはじめた。

「新しいリストが手に入った。一線級のラノベ書きたちに失踪され困り果てた出版各社がその代筆をまかせようと急遽かき集めた、小説家のリストだ」
 そう言いながら男は、封筒をアイリンの手にしっかりと受け取らせる。
「その中には、おまえが受け持った沖栄一の名もある」
「知ってるわ」
 アイリンが受けた。
 沖に対するときと違い、媚びというものがない、まったく真剣な物言いだ。
「仕事を依頼されたって本人から聞いたもの。でも、引き受ける気はないみたい」
「だが沖栄一は、出版社からはポイントが高い。才気を買われてる。今はともかく、さらにいい条件を出されれば気が変わるかもしれん」

「せっかくこちらの世界のラノベ作家どもをごっそり召喚したのに、代打を立てられてまたぞろラノベ本を量産されては元の木阿弥だからな。厄介なことにならないうちに、あいつも召喚したい」
「ダメ!」
 ひそひそ声ながらもアイリンが語気を強めたのがわかる。
「あの人はわたしたちの味方になれる人。この世界から荒らしにくるだけの連中と違う」
 状況はまるでわからないが。自分のことを必死で弁護してくれるアイリンの気迫ある声のトーンには沖の胸を打つものがあった。

「だったら、なおさらだ。我々には味方が要る。ほんとうに味方として役立てばの話だが」
「無理よ。あの人にわたしたちの世界では生きられない。こちら側で頑張ってもらったほうが……」
「ライトノベルの注文など引き受け、どうやって頑張ってくれると言うんだ? 明白な敵対行為だぞ」
「どうしても書けないと言ってるわ。ラノベがまったく性に合わないんですって。そういうまともな人もいてくれるのよ、こんな世界でも」
「自分がどちらの世界の住人だと思ってる?」
「おねがい、彼は召喚から除外して」
「やけに入れ揚げたもんだな。ターゲットを必要以上に愛着すると、ろくなことにならんぞ」
 アイリンと男とは、しばらく見つめ合っていた。
「いいだろう。おまえは功労者だ。一件だけ特例を認めてやる。一両日中に、代筆の依頼を断らせろ。できなければ、沖を召喚するしかない。だが。それもできないようなら……いいか? おまえのほうを召還する」

 男は去った。
 思い悩んだ面持ちのアイリンをあとに残し。


 突然。
 それまで外部との接続を阻んでいた障害が解除されたかのように、スマートフォンの機能が復旧した。
 着信音が鳴り響いた。
 音量はセーブしてあるのだが、静寂このうえない夜中の墓地では、なんと盛大に自己主張することか。
 やばい。
 沖はとっさに電源を切って対処したが、手遅れだ。
 アイリンに気付かれ、こちらを凝視されてしまった。
 ただの着信音じゃない。沖自身が作曲したメロディ、日本中で彼以外には使う者がないという着信音だ。
 アイリンなら、難なく身元を割り出すだろう。
 果たして。

「先生……まさか……沖先生?」
 アイリンは沖の居場所を見定めると、キッと睨み付けてきた。
 これまで見たことのない、別人かと思わせるほど鋭い目で。
「どうして、こんなところに?」
 おい、おい。
 逆だよ、逆。
 俺がこうしているのは、おまえがいるはずの住所にいなくて、こんなところにいたからじゃないか、アイリン。
「聞いてたんですか?」
「聞いたよ。いや、意味はわからなかった。ほんとだ。それより、アイリン……」
 沖は話を明るい向きにそらそうとした。
 悪夢か聞き違いと思いたかった。
 だがアイリンはそらしてくれない。沖に注がれるきつい目線もそのままだ。
 自分が抜き差しならない場に踏み入ったのを理解した。

 沖はいやな空気を振り払うように、いっきにまくし立てた。
 喜べ。
 編集者を説き伏せ、オリジナルなライトノベルを書いていいことになった。
 不本意だが、俺もラノベ作家の仲間入りだ。今後は思いっきりラノベ書きに専心というわけさ。
 ところで。
 いっしょにいたのは文芸愛好者のお仲間?
 なんだか出版界がラノベ本ばかり出すのを嫌気する話してたな。でも、もう心配いらない。
 ライトノベルは変わるんだ。いや、変えてやるのさ。俺とおまえとで。
 新刊本が、誰の名義になったと思う?
 おまえだよ、アイリン。おまえの名で沖栄一作のライトノベルが本屋の店頭に積まれるんだ。
 驚きだろう?
 おまえが、ライトノベル作家としてデヴューを飾る。
 世間を騒がせるアイドル小説家の誕生だ。
 いやとは言わせない。弟子入りした者の宿命と思え。
 だいいち普通は、弟子のほうが書いたものを師匠の名で売られるんだ。
 こんな好条件での引き立てはそうそうあるもんじゃない。
 案じるな。今は肩書きだけでも、おまえの実力なら遠からず、自分の力で一冊の本が書けるようになる。
 どうだ?
 二人で、この分野に新風を巻き起こしてやろうじゃないか。

 変だな。
 アイリンはちっとも喜ばない。
 俺が何を言っても書いても称揚してくれてたのに。
 それどころか。
 彼女は目を瞑り、深い吐息をついた。絶望の思いがこめられた嘆息だ。
「わたし……先生とこの世界にいることはできなくなりました」
「台湾に帰るのかい?」
「台湾じゃありません。わたしの故郷は……」
「どこの国でも、おまえの故郷なら素晴らしいところだろう」
「どんな素晴らしいところなのか……これから、お見せします」

 アイリンは墓地の中の道をしずかに歩み寄り、沖との距離を縮めてくる。
 そしてなんの衒いもなく、沖の身にしがみついた。
 拒めるわけがない。
 初めて会ったときからこうして欲しいと願ってきたことだ。
 次に起こることがわかっていれば振り切って逃げられたかもしれないが。
 一瞬後。
 沖の身は抱きついたアイリンとともに、戻ることのできない場所へと移動していった。
 それほど遠くへ行く実感はなかった。
 高速エレベーターで急上昇するようなめまいを感じた程度だ。
 いきおい、風景のほうが急激に入れ替わった。
 沖の前に、別世界が開けたのだ。
 別世界。
 草木のざわめきも、風のそよぎも、小川のせせらぎも、日の光さえ遮断され、まるで月面のような、荒涼と呼ぶには本当に何もない風景が。
 まさしく、異世界と呼ぶにふさわしいところ。

「ここ……どこ?」
 360度見回したが、さっきまでいた場所とはあらゆるものが変わっている。
 変わらないのは、傍らにたたずむアイリンひとり。
 沖はもう、どうしたらいいかわからなくなった。
「夢だよね?」
「現実です。あなたたちはファンタジーの世界と呼びますが」
 ファンタジー……。
 沖は身を支えられずに、へたり込んだ。
 砂地とも固い床とも名状しがたい、元いたところではあり得ない感触の地面に。
 美しいところがまったくない、荒廃の極致のような景観だ。
 地平線を越えれば別のものがあるかもしれないが、見わたすかぎりの周囲には何も見出せない。
「ねえ、アイリン……ひとつだけ教えてほしいんだ。あとはもう、何も訊かないから」
「ご質問でしたら、なんなりと。わたしはこの世界で育ちました」
「帰り道、わかる?」
 アイリンは沖を見下ろしたまま、何も答えなかった。



( 続く )




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