「アレが見えるの」
ダークグレーな雲が重くのしかかる世界の囚われ人だった僕はいきなり、あざやかな赤や白、ピンクの薔薇が咲き乱れる花園に解き放たれたようだった。 実際、彼女の服装は、ベレー帽、ジャケット、ワンピース、ハンドバッグなどすべて白を基調に、真紅のスカーフや淡いピンクのシューズでアクセントをつけるという、なんだかメルヘン調というか少女趣味なんだけど、でもおねえさんにはよく似合ってる。 やっぱり女子大生、服装も服に包まれた体も、高校生じゃかなわない華やいだ色香を発散させてた。 メークが上手で、おとなしい地顔からぜんぜん化粧と思わせずに艶やかさを引き出してる。カラコンで盛ったぱっちりと大きな目も、生まれながらのようだ。誰もが口づけしたくなる唇は厚塗りにならないピンク系の口紅で若いお色気を強調している。 体型は普通でヒールも上げ底なんだけど、身のこなしが颯爽として、二十代女子の恵まれた経済状態と自由の身を謳歌するような自信たっぷりな歩き方でとても格好よく見えた。 ようするにおねえさんは、自身を魅力的に引き立てるのが巧みだった。 お洒落のセンス抜群で、一流ブランドを普段着のように、または普段着を一流ブランドのように着こなせる。とにかく、この人が身につけるとどんな服でもさまになる感じ。おねえさん自身がひとつのブランドみたいな存在だ。 こういう人に目の前に立たれると、どんな落ち込んでても高揚してくるものがある。 三田のおねえさんは、アニメの声優のように抑揚のはっきりした、温かくて可愛い声で年下の友人との何週間ぶりかの再会をよろこんだ。 浮き浮きとした調子で、天然っぽく笑いかける。 「マモルちゃ〜ん、おひさ! また少し大人びた感じね」 「おねえさんもますます綺麗、モデルか女優かと思った」 「うふふ。どう、調子は?」 「うん……絶不調」 「まあ、それはいけませんね。何があったの?」 おねえさんはいたずらっぽく気遣うように、笑顔を寄せてきた。上品な香水の匂いが鼻腔をくすぐる。 僕は思いきって、一切を打ち明けることにした。 僕なんかの話を親身になって聞いてくれ、有効なアドバイスをもらえる相手がこの人のほかにいるだろうか。いや何はどうあれ、温もりがほしい。 「おねえさん、実は折り入って……」 「ふふふ、また誰かを妊娠させちゃった?」 おねえさんは僕の深刻な様子を察し、無意識のうちに緊張をほぐしたかったのか、即座に冗談で返した。冗談で。そう、冗談だ。信じるなよ。冗談だからな、冗談。まだ誰も妊娠なんてさせたことないぞ。 おねえさんは中学時代の僕の家庭教師だった。いろんなことを教えてもらった。稲葉高校に合格できたのも彼女のおかげ、苦手と思ってた数学や英語での埋もれた資質を引き出してくれたからだ。 その頃はよく一緒に遊びに行ったし、アパートにも出かけて手料理をご馳走になったりした。高校に進んだ僕が本格的に春を迎え、同年代の女の子と付き合うようになってからはおねえさんとの仲もそれまで通りのようにいかなくなり頻繁に会うこともなくなったけど、かつての先生と教え子というより年の差はあるけど気の合う若者同士として絆は今でも続いてる。おねえさんに勉強を見てもらった生徒でこんなに親しくしているのは僕だけかもしれない。 家庭教師としてのおねえさんの評判はけっして芳しくない。 受け持ちの男子生徒と問題を起こしたり(僕とじゃないぞ)、別の家では教え子の父親のほうと問題を起こしたりで、きわどい話題には事欠かない人なんだけど、男性遍歴の多さで女性を評価しちゃいけないっておねえさんから教わったことだった。 いい人だ。そういう眼差しで接してれば最善の人物として応じてくれる。 今もおねえさんは、わざわざ時間を割いて旧交ある年下男子の悩みの相談に乗ってあげるという。いや、どうせ暇だったんだろうとか、気晴らしにちょうどいい相手を見つけたからとか邪推しちゃいけない。僕は腕をつかまれるようにして、少し離れたところにあるおねえさん馴染みの珈琲店に引き込まれた。 若いカップルが行くような店とちがう。ビジネスマンが商談や会合の場にするような落ち着いた雰囲気の内装とBGM。客層もそれにふさわしい人たちだった。メニューを見たら、コーヒーだけで千円とかそんな値段だ。 二人分の飲み物を注文してから、おねえさんは話を切り出した。 「ねえ、マモルちゃん。きみらしくもなくしょげ切ってるようだけど。いったい何が、快活明朗だったあの守屋少年をそんなに追い詰めたのかな? おねえさんにわかるように説明してちょうだい」 僕は学校で続けて起こった事を、適当に端折りながら語り聞かせた。もちろん自分に共感してもらうための話だから、自分のことはかなり同情的に描写した。 おねえさん、こっちが期待する以上のいたわりに満ちた受け止め方をしてくれると思いきや。 「へーえ。きみって幽霊にとり憑かれてたんだ。まわりに霊が集まってくる、そういう体質だったのか〜」 あきらかに、おちゃらかしてる。 そうやって場をやわらげてから、いきなり踏み込んできた。 「でも馬鹿みたい。マモルちゃんの同級生って、みんな高校生なんでしょ、高校生といったら、「遅れてる〜」とか「黙れ、童貞」とか合い言葉にしてる人達だよね。なんで怨霊の祟りとか呪いを疑いもなく信じちゃうわけ?」 いや、それは……。僕ら高校生って、定説に背くことを真実めかした調子で語られたりすると、たやすく信じてしまう種族だから。おねえさんは十代の頃を忘れてしまったのだろうか。 「いくらなんでも無知蒙昧すぎるでしょ、まるでライトノベルに出てくる迷信深い山奥の村のよう。本当に二十一世紀のニッポンなの? まったく。そんなだから韓国に抜かれるのよ」 おねえさんは弟分をいたわってその敵を撫で斬りにする勢いで今度は、現代日本の教育問題をまな板に乗せた。あのさ、そこまで戦闘範囲を拡大しないでも。 「そうだよね。韓国に負けるよね。おねえさんの言うとおりだ」 僕はそうだそうだと同調する口ぶりで、国際的視点にまで舞い上がったおねえさんを飛び立った場所に引き戻す。 「とにかくクラスのみんなが黒石御影って女の子の言うことを信じてる。だって、現に三人も祟られたんだから。しかも早乙女呪怨という人が専門的な立場から裏付けてみせた」 「なんなの、その早乙女じゅおんって?」 「ネットで知り合った自称霊能者。たぶんインチキだ」 「そりゃそうでしょう。インチキでもなけりゃ自分で霊能者だなんて、恥ずかしくて名乗れないわよ」 そうなのか、それが大人の世界での常識か。やっぱりネットの中だけじゃわからないんだな。僕の内部で早乙女呪怨の権威は、ラピュータの城のように跡形もなく崩れ落ちた。 「あと、御影石とかいう女の子。何者なの? 同じクラスの男子に幽霊がとり憑いてるなんて、どんな顔して言ったのかしら」 「黒石御影だよ。面と向かって言ったんじゃない。幽霊が大嫌いで、ぼくには寄るのも避けてた。親しい仲間にだけ話してたのが、いつのまにか噂になって広まったんだ」 「虚言癖なの? 頭の変な子?」 「いや」 僕は我知らず、力をこめて否定した。 「嘘つきでも頭がおかしいわけでもない。彼女の友だちでそんなこと言う子はいない」 「へえ〜。それなりに人望があるんだ」 「もの静かな子だよ。みんなをリードして、べらべらまくし立てるようなタイプじゃない。でも嘘をついたりはしない。だからみんなが真に受けたところもあるのさ」 お姉さんは、怪訝そうな顔をした。僕の言ったことじゃなく、言い方に対して。 「その子が噂の出所でしょ? あり得ない内容のデマの言いだしっぺ。きみが風評被害で困ってるのはその子のせいなのに、なぜ弁護するようなこと言うわけ? 嘘つきじゃない、なんて」 ぼくはなぜか、どぎまぎとする思いを味わった。 「べ、弁護なんかしてないよ」 おねえさんは、僕の戸惑いの理由を見きわめようとするかのように、こちらをじっと覗き込んできた。 「その子って、可愛い子?」 「どうかな、好きなタイプじゃない。まず目立たない子なんだ。この僕の周囲で幽霊が群れてるなんて言い出さなければ意識することもなかった」 「ふーん。つまり彼女、きみに自分を意識してもらいたくて嘘を言いはじめ、ついに目的を達したわけね」 「なんだって?」 何を言い出す、おねえさん。 そんなのとぱ違う。御影が僕に惚れてて気を引くために嘘を言いふらしたなんて。絶対にあり得ない。あの子の態度を見ればわかる。今日まで十七年、ダテに生きてきたんじゃないぞ。女の子が自分に恋してるかなんて、僕にだってわかる。あれは、僕なんか眼中にもない反応の仕方だ。御影の関心はあくまでも僕にとり憑いた幽霊ども、それを避けることにだけあるんだから。 でもおねえさんの欠点としていささか自信過剰なところがあったから、自分の通りいっぺんの人間分析について見立て違いだなんて思うどころか。僕のさも意外なこと言われたって驚きぶりを、真を突いた分析だったので言葉も出ないと受け取ったようだ。 僕はいや参りました、おみごとですという返しでつくろい、あらぬ向きに逸れようとする話題を修正した。 御影のことなんて話したくもなかった。 「それにしても。ずいぶん理不尽な目に遭ってるのにね。きみは何にもしてないわけでしょ」 「そうだよ。自分がしたことじゃないのに、僕が責められてる」 「ほんとにそうね。何にもしなかった」 「まったく。何にもしてないのに」 「そのままでいいと思ってる?」 変だ。話がどこかかみ合わない。おねえさんが責めてるのはクラスのみんなじゃなくて、僕のほう? 「自分を守るために何もしてないでしょ。きみはただ、降りかかる火の粉から逃げてるだけ。」 おねえさんは僕の目を覚まそうとするように、目の前で指をカチッと鳴らしてみせた。 「常識を使いなさい。きみに幽霊がとり憑いて祟ってるなんて馬鹿なことあるわけないじゃない。みんなが言うのってオカルトでしょ、オカルト。洒落じゃ済まない、現実にきみがバッシングされてるのよ。不運が連続するのは誰かのせいだという思い込みからくる濡れ衣を着せられて。そのままにしたら、きみが学校で存在できる余地がないじゃない。せっかく頑張って入った高校なのに」 おねえさんは、宣告するように指を突きつけた。 「いい? みんなにとり憑いた考えこそ悪魔なんだから、守屋護にとっての。全力で排除しなければ。オカルトを排除するか、きみがオカルトから排除されるか、二つにひとつ。なんで祟りも呪いもあり得ないって、みんなが納得するまで説得を試みないの?」 「言ってもどうせ通じないに決まってるから」 おねえさんはもっともらしく、威勢のよいことを言うが。パンがなければお菓子を食べなさいと言うのとどこか似ていた。現場を知らないんだ。 「もう、そういう空気が出来上がってるんだ。担任の先生はあの件で怪我して入院中だし(もとから頼りにならない人だけど)、誰も僕に味方してくれないよ。僕ひとり何を言おうと、空気の圧力で押し切られちゃうのさ」 「なにが空気の圧力よ」 おねえさんは俄然、怒気をはらんだ目で凄んでみせた。どうしても呑み込めない文法や数式を僕に叩き込んだ家庭教師の頃を髣髴とさせる。 「空気に権威なんかあるの? きみのはオカルトよりたちが悪い。空気に平伏するなんて。空気なんて汚れたら入れ替えるだけのものでしょ」 僕は今そこにある空気を読み、おねえさんの忠告に従うことにした。 「そうだよね。おねえさんの言うとおり。空気なんかに負けちゃいけないよね」 さて。 その後はまあ、雑談というかたち。今度は僕が、おねえさんから女子大生の私生活にまつわる不満や悩みを聞いてあげる役目を仰せつかった。こっちの相談に乗ってもらった三倍も時間をとられて。 その間おねえさんは、クラブハウス・サンドと山盛りのフライドポテトを注文し、僕にも勧めた。僕のほうはまるで食欲なくてポテトをつまむ程度だったけど、憂さ晴らしでしゃべりまくるおねえさんは快気炎をあげながらサンドイッチを平らげ、さらにジェラートを追加する。 なんのかんの言いながらおねえさん、僕と違って満ち足りた人生なんだなあ。
そんなわけで。愚痴を語り尽くし清々した感じのおねえさんと僕が店を出たのは、もう日が暮れかけた頃だ。 おねえさん本当は、僕をさらに連れ回し、色々なことをして宵まで過ごしたかったようだけど、相手が高校生なのでさすがに躊躇したらしい。 躊躇しないでもよかったのに。 実際、誰もが振り向かずにいられない魅力あふれる女子大生と、お茶を飲んだくらいで行儀良く別れるとは大人の男だったら悔恨の念を抱く場面に違いない。 喫茶店で同席中も、頭の中のかなりの部分が面と向かったおねえさんの肉体的魅力が引き起こすあらぬ想念を抑えようと懸命だったのは正直に言ったほうがいいかな。 唇を重ね合わせたい可愛い顔。服からつかみ出したいやわらかい光沢の乳房。そしてしがみつきたくてたまらないぷりぷりした感じの両脚。 すべて自分のものにしたかったのに、手を握るくらいしかできないなんて。 家庭教師として同じに勉強を見てもらう間柄だったのに、彼女と性交渉を持つところまでいった別の高校生と、いまだに清い関係のままな僕とではどこに違いがあるのだろう。 別れ際、おねえさんは僕に降りかかった災いのことでダメ押しをした。 「いい、マモルちゃん? オカルトなんて認めたら、ダメ。きみがオカルトを食うか、オカルトにきみが食われるかになるわよ」 それから、またの再会を僕と約し合ったおねえさんは、やわらかなオレンジ色の夕陽が降りそそぐ街の雑踏の中に消えていった。 おねえさんの後ろ姿を見送りながら、僕はこの人にこれまでにない愛おしさを感じた。 勇気以上のものをもらったような気がした。 翌日、僕は屈することなく学校に行った。 そして不幸の連続はまた起きた。 |