「アレが見えるの」
おねえさん、入院中でも小奇麗にしてる。 パジャマなんか着てない。こんな場合にも可愛い自分でいたいらしくて、ノーブラのTシャツにおへそが見えるようなショートパンツだよ(うわあ、うわあ)。 溌剌としてたのがすこし痩せておとなしくなったみたい。お化粧なしの素顔まるだしでちょっと地味に見えるけど、性格の好さがナチュラルに顔にあらわれ、声も態度も普段通りのおねえさん。基本、ちっとも変わってない。 なんと言ったらいいか、この人をこの人としてあらしめる体系が何もダメージ受けてないんだ。 「大変だったんじゃないの?」 ぼくの問いかけをおねえさんは、ケロリとして受けた。 「そうね。でも、苦しくて悶絶したのは入院した日だけ。あとは現代医学が寄ってたかって、わたしを苦しみから遠ざけ、救いだしたって感じ。もう平気、もう大丈夫、立ち直っちゃった」 寝台をソファ代わりにして腰掛けるおねえさんは、その前に僕を立たせたまま滔々と語る。あ、椅子は別にあった。ただ、座ってと言われなかった。 「でも入院した日に来なくてよかった。数えきれないほど病室とトイレを行ったり来たりするのを見たら、すごい幻滅されたと思う」 そんなことないって。苦しんでるとき傍にいてあげられず、音沙汰もなしで申し訳なく思ってるのに。 かしこまってたたずむ相手に、何をイメージしたのだろう。おねえさんは目を泳がせるうちにといった風で、僕のネクタイに目を留めた。 「立派な格好……。わたしのお見舞いで、そんなお洒落してきたの?」 おねえさんはネクタイをつかみ、愛犬の首輪みたいにくいくいと引っ張った。そのまま誘導する感じで、僕を自分の傍らに座らせる。 わお! 僕って今、女性とおなじベッドにいるぞ。 でも、どぎまぎとした気分じゃない。思えば中学生の頃は、自室でこうして寄り添うようにして勉強を見てもらったんだっけ。未体験ワールドどころじゃない、むしろ懐かしさあふれる感覚。 おねえさんは身をよじらせて、そんな僕と向き合う。 僕は白状する振りして、嘘をついた。 「実は、彼女とデートだったけど、喧嘩して別れちゃった。まだ昼だし行き場もないから仕方なく、ここに来た」 「あらあら、聞き捨てならない言い草。つまり、わたしは彼女の代用品?」 「違うさ。彼女のほうが、おねえさんの代用品にならなかったってこと」 一瞬の沈黙ののち、おねえさんは吹き出した。 「あっはっは! 先行き恐ろしいわね、17歳でそんな殺し文句を吐くなんて」 殺し文句? 真摯な思いで言ったのに。いったい、どんな子が三田和美の魅力にかなうっていうんだ。 でもおねえさんは上機嫌で、上手なお世辞のご褒美を振舞った。 「マモルちゃん。冷蔵庫にプリンとかメロンあるから好きに食べて。お見舞いの品がたまってるの。みんな、いろんなもの持ってきてくれるけど、あたしお腹の調子アレだから」 「おねえさん食べられないのに、僕だけご馳走になっちゃっていいの?」 「いいの。きみが食べるの見て、わたしも食べた気になれるから」 そりゃ、かたじけない。 バーベキューを食べ損ねた僕は、猛然たる食欲で洋酒入りのアップルパイにかぶりついた。おねえさんはポットで紅茶を入れてくれた。この紅茶もお見舞いの一品のようで、見慣れない英国王室御用達の銘柄だ。 病室の中はほんと、お見舞いの品だらけだ。洋菓子や和菓子、果物、缶詰、クッキーやチョコレート、花束や置物、装身具やぬいぐるみ、CDに書籍に化粧品、洋酒まで……。 そういえばいろんなことあり過ぎて、常識を失くしてた。こういうときはお見舞いを持ってくるものなんだっけ。 僕は後悔した。あの一万円、うっかり献金なんかしないで、おねえさんのため使えばよかった。 でもおねえさんは、僕が来ただけでうれしいという顔をしてくれる。いい人だ。 それはともかくおねえさん、なんだか僕を別の存在として意識し始めた気がする。そわそわと落ち着かず、なにか期待してるみたい。こんなこといままで、あったっけ? 場をなごまそうと思った僕が、病室を間違えた件を話すと、やっぱり大笑いになった。 「やだ。その人、文学史の先生じゃない。わたしと名前の読みが同じだからまぎらわしかったの。おなじ階に入院して、よりによってマモルちゃんと最後の御対面なんて、ほんとに死ぬまで祟ってくれたわね」 僕もこの際だから、不謹慎なネタに相乗りを決め込んだ。 「死んだあとでも祟られたりして。あのおばあさんの顔、目に焼き付いちゃった。瞼を閉じると浮かんでくるんだよ。てっきりおねえさんとの悲劇的再会と思い込み、ご臨終の顔と間近に顔寄せて、向き合ったからさ……やっぱり呪われたのかも」 「まあ、かわいそう。よし……」 おねえさん、いかにも思いつきで余興やるぞというお茶目さで腰を上げ、僕の前に立った。ほどよいサイズの乳房がちょうど僕の目の前にくる位置で。それだとなんだからという感じで、背をかがめて顔を近づける。くちづけを求めるような感じ。 「おねえさんがお祓いしてあげましょう。は〜い、目を瞑って〜」 おねえさんは、ぼくの閉じた瞼の上に手を置き、微塵も神妙なところのない愛嬌に満ちたアニメ声で呪文を唱える真似事をしてくれた。 「守屋まもるくんの目に焼きついたおばあさんの死に顔が、消えてなくなりますように。死に顔、死に顔、飛んでけ〜。死に顔、死に顔、飛んでけ〜。ほ〜ら、いま窓から飛んでいきました♪」 ほんとうかな。 目を開けると、あの壬田和実おばあさんの臨終の表情じゃなくて、三田和美おねえさんのいとしい顔が僕の顔と異常接近してる。 くちづけを交し合うのにこれほど遠慮とか恐れのいらない状況もなかった。 それでも僕は躊躇したが、おねえさんはこっちの抵抗線になんのこだわりもなしに、やさしく踏み入ってくる。つまり顔をいっそう近づけてきた。 唇と唇が触れ合う寸前だった。相手がそういうつもりなら……よし、最後の一歩は自分からだ。僕はかなり気張ってというか硬直した態度で、くちづけを挑んだ。その刹那、おねえさんは柔軟性をもって対応、たがいの鼻がかち合わないよう絶妙な向きで顔をかしげる。そして僕の体に両腕をまわした。とっさにおねえさん、いや和美さんは僕の膝の上を居場所とするように身体を崩し、弾力ある体圧がこの身に快くのしかかるのを感じる。唇を重ね合わせた感触に興奮しながらその身をかき抱いた。 熟練者の指導よろしきを得て、僕の初キスは完璧だった。 おねえさん、僕への影響力のわりに体格はずっと小柄なので、とうぜん僕から力強くエスコートされる格好になってる。でもしっかりと僕にしがみつきながら、こっちのエネルギーがあふれ出る方向を思いのままに操ってる。僕がどう挑んでも結局、おねえさんから求められるままに奉仕する感じ。 「もしかして、きみに大変なことしちゃったかも」 いったん顔を離した後で、彼女は囁いた。 「わたし、まだ完全に回復してないのね。体の中に食中毒のウイルス残ってると思う。今ので、きみにも感染したかもよ」 僕は上気した顔をほころばせて受け流した。 いいんだ。こっちまで入院する身になったら、相部屋に移って仲良く療養しようよ。まあ、親が許しはしないだろうけど。
病室の窓からの眺めは最高なんてものじゃない。遠からぬ場所に大きなお寺があり、付帯する墓所が広がってる。それでも今の僕には、燦然と輝くモニュメントのように壮観な景色だ。 和美さんと肩寄せあった僕は、その上方、澄みわたった空のかなたに思いをはせるようにつぶやいた。 「和美さん、さっきお祓いしてくれて、おばあさんの霊が窓から飛んでったって言ったね。あの後、どこに行ったのかな?」 和美さん、こんなときでもアニメ声。 「ふふ……捨てたゴミの行方を心配してはなりません」 うわ、酷い言い方。お祓いした人の霊がゴミだって。 「霊魂って、ゴミなの?」 「そう、廃棄物。みんなの無知と迷信から湧いて出た、生きてる人にはまったくの不用品」 「死者には敬意を払わないと」 「祟られる?」 和美さん、媚びるようにこっちへ頭をかしげる。 「それ、別問題。死んだ人へのリスペクトと霊魂とか怪異を真に受けて怖がるのって、違うでしょ」 おまえ、自分の大学の先生をリスペクトしてたかよ、とは言うまい。 「でも、世の中には怪談があふれてるよ。あの世を見た臨死体験の話もある」 「あくまで、この世のニーズ。良い子は影響されてはいけません」 常識からすれば、和美おねえさんが正しい。 でも僕としては、あの儀式での反応から黒石御影の言うことも嘘じゃないと思うようになってたので、心中はちょっと複雑だった。 いま、僕の身辺にはどれだけの数の幽霊が群れてるんだろう。 でも傍らに存在を感じるのは、温かい息づかいで僕に身をゆだねる女性がひとりだけ。 ああ、僕のすべて。 実を言えば、こんな話をしながらも僕の関心は隣りの人への性的衝動で占められてる。 和美さんは一目で男を虜にするナイスバディの持ち主というほどじゃない。肉付きのよさでは敦子のほうがまさってたし、こうして身近から小柄な身に寄り添われてみると、街中を歩くときほど颯爽として見えるわけじゃないけど、とにかく愛しかった。 自分が心から敬意と愛情を注ぎ、その反応の一々が気がかりな相手。表情や仕草、言葉がひとつごとに大きな意味をもって僕に影響してくる存在。 あからさまに言えば、身も心もひとつに結ばれたかった。 僕はさっきから、こっちが求めることを伝え、二人の関係をより発展させる糸口をつかみたくて実は必死だったが、口から出たのはまたもやオカルトの話題だ。 「どの病室のどのベッドにも、苦しんで死んだ人の霊がたくさん憑依してるっていうけど」 違う、違う。こんなタナトスな話題が振りたいんじゃない。糞、なぜこんなのしか出てこない。 「ここの病院、出来てから何十年もたってるよね。このベッドの上だけで、どれだけの人が亡くなったんだろう」 「そういうことは考えない」 和美さん、アニメ声できっぱり。微塵も情感がない。 「別の向きに頭を働かせる。救われた人のほうがずっと多いんだから」 どんなことも前向きに捉えるこの人の面目躍如たる台詞だった。 「みんな病院といえば縁起の悪いことばかり、呪いだ地縛霊だと無意味に怖がるけど、そういうところが見えないのよ。たとえば産婦人科なんて、一つの病室、一台のベッドでどれだけの命が産まれたかわからないでしょうに。プラスマイナスでは、死より生のほうがはるかに勝ってるはずよ」 その発想はなかった。さすが和美さん、惚れなおした。 ベッドで救われる……僕もそのひとりになりたい気分だ。 ここは個室だし、ベッドの上に、和美さんがいて僕がいる。必要なものはみんな、揃ってる。いや、足りないものがひとつだけ。ことを運ぶ意思、最後の一押しする勇気だ。 僕は自分を奮い立たせた。 よし、打ち明けるぞ。絶対、打ち明けちゃうぞ。和美さん、あなたの体が欲しい。あなたとひとつになりたいんです、って。 「ねえ、おねえさん」 我ながら、淀みなく言葉が口から出てくる。 いいぞ、いいぞ。この調子。 「あれから、おねえさんに言われたとおり、風説を打ち消そうと頑張ってみた。いや、頑張りたかった。でも……実際には、風説に挑むどころか、学校にも行けない。まるで、見えない力に阻まれるようで登校できないんだ。おねえさんが入院したこともその日に知ってたけど、お見舞いにも行けない。病院にまで災いを持ち込むんじゃないかと心配で。スマホもつながらなかったし」 あれれ。僕は何を言ってるんだ。 「………………」 おねえさんは無言で、傍らにある側の僕の手を取った。 「もはや学校だけのことじゃないんだ。僕のおかげで災いが拡がってるって、ネットで日本中に拡散されてるよ」 思わず知らず、早口でまくし立てるようになってくる。 「いったいどうなってるんだ、世の中は? 僕はどうしたらいいんだろう?」 「落ち着け」 そう言いつつ。おねえさんいきなり、つかんだ僕の手を太ももの上に乗せた。おねえさんの太ももの上に。 うわ。敦子から密着されたときの比じゃない。実際に手でさわってる興奮は圧倒的だ。体の一部がズボンの中で快く突き上がっていく。 「オカルト現象ってやっぱり、存在するんじゃないかな」 「だから、落ち着けと言うに」 落ち着けないだろ、こんなことされたんじゃ。そっちこそ、言うこととすることがかみ合ってないぞ。 「きみのは……重症」 たしかに。呼吸はいっそう荒くなり、心臓は激しく鼓動、沸騰した血流が全身を駆けめぐる。脈拍検査したら危険な状態だろう。 「マモルちゃん。存在するのはきみの思い違いだけ。どれだけ不運が重なっても、オカルト現象の証明にならないよ」 「だけど。不運が重なったのも現実だろ」 「そうよ、現実。あり得ないはずの不運が連続しちゃったという現実。それ以外の何ものでもないでしょ。なにか意味を見たいの?」 「しかし、なんで僕に降りかかるの? 確率からいえば当たるはずのない災難ばっかり」 「さあ、なぜでしょう。おねえさんにもわかりません。でも確率からいったら、あり得ないことじゃないよ。誰かが貧乏くじを続けて何枚も引いちゃっただけの話」 だから、その誰かがなんで僕なんだ。 「それじゃ確率からいっても、もう引かずに済むよね? そう考えていいの?」 「どうかしら。それでも、はずれ籤が残ってない保証はないの。明日になっても不運は続くかも。さらにその翌日も……だから、どう?」 「そんなの、いやだよ」 僕には、納得できない。もっと励ましの言葉を期待する素振りで、ほんとうはもっと親密な行為で力付けてほしかった。 「マモルくん。苦しいのわかるけど、もっと強くならなくちゃ」 おねえさんは唐突に、関係ない話をはじめた。 「ねえ。実(みのる)って人、知ってる?」 おねえさん、知り合いが多いんだね。 「昔、一日だけつきあった男の子。とっても馬鹿なの。内気で不器用で空気が読めなくて……なぜかその子、わたしに惚れちゃって。わたし呼び出しに応じて、美術館めぐりのお供してあげた。でも、まったくの愚図。女の子はみんな潔癖で、ちょっとでも性的に踏み込んだ真似するのは失礼だって思い込んでたみたい。自分がそうしたくても抑えてる。そんなことないよ、遠慮しないでもいいよ、もっとくつろいだらって、こっちがいろいろ態度で示してあげてるのに、自分にはできませんの壁をつくって一歩も踏み出そうとしなかった。女の子の手を取るのもビビってるくせに、あくまで毅然とした紳士であろうとするの。馬鹿みたいでしょ?」 ほんとに。せっかくおねえさんを誘い出し、そこまでリーチがかかりながら、もったいないことをする奴がいたもんだ。 「馬鹿だね」 「そうよ、マモルちゃん。きみはその実より馬鹿」 僕が実より馬鹿……。 そういうことだったのか。和美さんの真意がわかった。 「今のきみって、その実くんとおなじでしたいこともできずにいるじゃない。ずっと親身にサポートされてる状態なのに」 たしかにこれ以上、親身なサポートもないだろう。和美さんはすでに僕の身に両腕をまわし、顔を僕の真正面で最接近という有利な地歩で相手への主導権を確立し、こっちからのどんな反撃にも即応できる態勢だ。 「そうでしょ? これだけ身近で良いフラグが立ってるのに、自分はめぐり合わせが悪いとしょげ込んでるばかり、ほんとうの幸運が自分の身に訪れてるのに。滅多にないはずれ籤ばかり引かされた? それがどう? そんな具合にいつまでも、悪い籤が当たったのばかり気に病んで、良い籤を引いたのに気が付かないなんて。せっかくの当たり籤が期限切れになって無価値になるか、チャンスのほうで愛想を尽かして去ってっちゃう」 「ほんと。きみは実より馬鹿だな」 そんなこと言われても。馬鹿でいようと思ってこうしてるわけじゃ……。むしろ和美さんを思いやり、あんまり図々しくしないよう気を使ってのことなのに。とにかく、そっちの意に沿いたいんだ。 「一応……相手の承諾を得ないとね……勝手にできるもんじゃないだろ、こういうのって」 「それじゃわたしから、きみの承諾を得る? 結果はおなじだけど」 あ。そうしてくれたほうがいい。間違いをおかさずに済む。 「ど……どうぞ。OKです」 そう言いつつも。僕は自分から熱情を発散する挙に出た。言うこととやることがかみ合わないのはこっちもおなじだ。 和美さん、僕の不意討ちにとっさに顔を引くと、こっちの求めをはぐらかす一瞬の間に体勢を立て直し、続いてすくいとるように口をあてがい、僕からのくちづけの申し出に応じた。 僕の愛情表現がどんなに稚拙で粗雑でも、みごとにさまになるかたちで受けてくれる。和美さんが家庭教師としてあんなに優れていた理由が今わかった。今更ながらこんな状況で、この人の真価を思い知るなんて。どんな荒馬でも乗りこなすばかりか、ダメな馬でも発奮させ快速で走らせる天才的な女騎手だ。 さっきより濃厚で熱烈、さらにエスカレートし、たがいを求め合うところまで進んでいった。 僕は、手に電流のような痺れを味わいながら、和美さんの乳房や腰をまさぐり、生まれて初めて女性の服を脱がそうとする。 僕と彼女との関係は最後の総仕上げにいく寸前だった。 今度も熟練者の指導よろしきを得て、僕の初体験は完璧……にいきそうだった。相手が、僕の名前を言い間違えることさえなければ。 「う〜ん……マサヤ……あ……あ、ごめんなさい」 いや……間違いは誰にでもあるものだけど……いまのは、僕には手酷い仕打ちだった。 はじめ、なんで間違えたのと感じた程度だが、そのあとじわじわきた。食中毒の感染よりよっぽどダメージは大きい。 しだいに白けた空気になってきた。 いや、マサヤの名を呼んだのはいいけどさ。そのあとの「ごめんなさい」は、どっちに言ったの? 僕のほう? マサヤのほう? そう問い質したかった。 起きたことが信じられない。自分の腕の中で思いのままにできるはずの女性がほかの男の名を呼ぶなんて。どんな超常現象よりあり得ないこと、あってはならないことだ。 そのうちに、おねえさんは服装を直しはじめた。 「マモルちゃん……そろそろ検診の時間なんだけど。看護師さん入ってきて、体温とか脈拍を測るの。はずしてくれないかしら」 僕は感情を押し殺し、仰せのままに従う。 (ずっとあとになって人に話したら、そういう状況でそういう真似はなかなかできるもんじゃないって言われたが) お大事に。 病院からの帰路。 複雑な思いでなかったと言えば嘘になる。結局、僕のほうがマサヤとかいう奴の代用品だったってわけだ。いきなり騎士に昇格した小姓のように有頂天になってたのが、馬鹿みたいだ。 まさしく僕は、実より馬鹿なんだ。 でも。 でも……すくなくともこの僕を、本当に好きな相手の代用品に見立てるほどには価値を認めてくれてたことにならないだろうか。 そうさ。前向きに考えるんだ、前向きに。おねえさん流に。 だけど本気でおねえさん流に考えたら、事情はもっと混迷してくる。おねえさんの男、例のマサヤだけであるわけがない。たまたま僕の前に過ごした相手がそいつだったというだけで、実際つき合ってる男はもっと大勢いそうだ。 なにしろ、おねえさんのそばには男がいくらでも寄ってくるんだから(僕のそばに幽霊が群がるように)。しかもおねえさん、あのとおりの寛大さだから、たいていの男を気前よく受け入れてるかも。 そんな次第で。 いろいろ思いをめぐらしわかったのは、僕は芯から三田和美に惚れてる、あばたもえくぼで何でも許してしまうということだ。 すでに日は落ち、カップルばかり目立つ街路や電車の中で僕は、和美さんがこのあと誰かとさっきみたいなことをして、うっかり僕の名を呼んだりするんじゃないかと余計なことで気をもむようになっていた。 家に帰った僕は、母から入試の結果を訊くような興味津々たる態度で迎えられた。 「デート、どうだった?」 「うん……」 起きたことをそのまま言おうかと思ったが、やめた。 「カルト教団の入団式いってさ。生け贄の儀式で、もらった一万円そっくり献金しちゃった。でも隣りの子といちゃつき合って、いい思いしたよ。同級生で幽霊の見える子がいるんだけど、その子の前であの家庭教師だった三田和美さんの命に代えて信仰を貫くって宣誓させられた。そしたらその子、ぶっ倒れちゃって、大騒ぎ。病院にお見舞い行ったら、まったく知らない女の人のご臨終に立ち会わされて。あげくの果てには入院中の女子大生と病室のベッドで……彼女、感極まって叫ぶんだ、僕以外の男の名前を」 これじゃたぶん、母に殺される。 だから、三文字で簡略化して伝えた。 「大成功」 そして僕は、母にウインクしてみせた。 母は、でかしたという感じで、にんまりと微笑みを返す。 「今度、家に連れてきなさい」 あの……もとはといえば、あんたが探して家に来てもらった人なんだけど。 また、和美さんから連絡こないだろうか。 僕はマナーモードを解除したスマホを枕元に置き、待ち受けることにした。 そして深夜。 うとうととまどろみ、夢の世界に浸りはじめた頃、耳元で着信音が激しく鳴って、消灯した自分の部屋という現実に呼び戻された。 暗闇の中、跳ね起きる思いでスマホを手に取り、通話の操作。 「はい」 「……もしもし……あたし」 その声を聞いた僕は耳を疑った。絶対にかかってくるはずのない相手からだ。 「ほんとに、きみなの?」 声の感じは、とくにこちらに親しみは示さないが、それでも切実に何かを告げたいという風だった(まるで幽霊みたいだ)。いや、幽霊じゃないとはっきりわかるのは、以前にも話し合ったことがある少女の特徴的な語りかけだったからだ。 「そう……あたし」 たまげた。ほんとうに黒石御影からだ。 |