しりょう たいせん |
この挿絵は描画メーカー「NovelAI」で制作されました。 大まかなイメージの視覚化であり、 必ずしも作者の思い描くものと合致するわけではありません。 |
安らかだった。
それが襲ってくるまでは。
星空と呼ばれる満天にひろがった諸天体が発する瞬きは、いずれあらゆる領域が人類の生存圏として地球文明で覆いつくされる遠い未来の繁栄を約すかのように、今は夜になびく地上の事象に仄かながらも輝きをあたえ、闇の中に浮かびあがらせていた。
リマは胸の昂ぶりを覚えた。
ラジオの報道番組は、米国人実業家アーロン・マックスが企てた火星移住計画の話題で持ちきりだ。
電池が切れかけて感度は悪いが、それでも昂ぶった声でキャスターが伝える概要は聴き取れた。
遠からぬうち、数千人単位の規模で移住団を火星に送り込むという。
我々の生存圏はついに、火星にまで達する!
彼女の小さな身には遠大すぎる出来事とはいえ、人類の一員として、この世界の一部として、等身大の事件と感じるほど身近での快挙として受け入れていた。
いや、リマにとっては自然なことだ。
彼女が住むのはどこか南米の高地にある小さな村。
住民の収入は低いままで、水道はなく電気も止まることが多い。
しかし。どこでどんな暮らしをしようとも、自分にも人類の火星行きを祝う権利があるのを疑いもしない。
昼間にも村の広場で、友達のロザンナとこんな話をし合ったばかり。
「火星に行けるって、スゴイことなの?」
「人類の昇華に選ばれるんだからこんな名誉は、ほかにないんじゃないかしら」
ロザンナは博識だ。なんでも知っている。父親から言われたことをそっくり覚えて、リマに教えてくれるのだ。
「お父さん、言ってた。火星行きの前にメキシコの砂漠で、すごい大きな居住施設に入って訓練するそうよ。何千人も収容できるほどの。火星につくる予定の未来都市そっくり再現したものなんだって。そこで何ヶ月も、何年も、地球を離れて火星で暮らせるか適応性を確かめるっていうけど」
「ねえ、どういう人が選ばれるのかしら?」
「たいへんな審査があるみたい。うんと頭が良くて、うんと態度も良くて、体もがっちり出来てる……そういう人たち」
「この村からじゃ無理かな?」
「無理でしょ」
どの村人も、痩せていた。着るものは古着ばかり。いちばん学歴の高い人でも高卒止まりだ。もっとも大学を出ていたら、こんな村にはいられないだろう。
「ロザンナだったら、行けるんじゃない?」
「いえ、わたしは行きたくないけど(笑)」
ロザンナはすこやかに伸びをした。
「火星なんて世界の果てだもん。ここより辺鄙なのよ。行ったら、帰れないし。わたし大きくなったらお金持ちと結婚して、首都に住むの。おしゃれなアパートメント借りて、車を乗り回す。首都だから、美味しいものがいくらでも食べられる」
「いいなあ」
ロザンナは村長の娘、同年代の少年少女らの憧れの的。
家は村ではいちばん立派、良いものを食べ、身だしなみは誰よりも小ぎれいだ。お小遣いがたくさんもらえるばかりか高い教材も買ってもらえ、学校では優等生だった。
彼女のまわりにはみんなが集まってくる。
そのロザンナは、誰よりもリマがお気に入り。いくつも年上ながらとても気が合い、おねえさんのようにやさしく接してくれるのだ。
「リマにもチャンスはあるわ」
リマがロザンナのことを羨むと、いつもこう言って話を締める。気休めの言葉なのだが、ロザンナから言われると気休めには思えない。
そうよ。自分の人生がこのままで終わるはずないじゃない。
やがて必ず、世界中から祝福されるほどの劇的な変化が身に訪れるのをリマは信じて疑わなかった。
リマは井戸に、水を汲みに行った。
おばあちゃんが喉が渇いたというけど、あいにく水を切らしてた。
蛇口をひねれば水が出る暮らしでないのを貧しいとか不便とは感じない。
井戸に通うのは、すっかり習慣になっていることだ。日本の主婦が専用容器を提げてスーパーまで料理用の純水をもらいに行くのと気分的にそう変わらない。
星空の下を歩くのはちっとも怖くない。
今夜はひときわの感慨を抱き、ポリバックを両手にぶらさげて馴染んだ夜道を歩きながら、リマは祖母の身を気遣った。
ひさしい前から体の調子が悪いのだ。
寝込みっきりで、なかなか起きられない。
家のことはすべて、自分がやるようになった。
夜空を見上げながらリマは思う。
人は死んだら星になるというのはよく聞かされた。でも、おばあちゃんも死んだら星になるのかしら、とは考えたくない。
祖母が死ぬなんて信じられなかった。怖かったし、あってはならないことだった。
やさしいおばあちゃん。
両親がいなくなったあと、リマを引き取って面倒を見てくれ、ときには厳しい態度でのぞむけど、求めると存分にあまえさせてくれる。
井戸に近づくと、リマの足取りはかたくなった。
忌むべきものが目に入ったからだ。
ホルヘがいる。
井戸のそばで待ち受けるようにして、こっちを見てる。
嫌な奴。何かといえばからんでくるのだ。
向こうは挨拶したが、リマはツンとした態度で無視を決め込む。
井戸の場所から近くの家まで悲鳴をあげれば聞こえるほどの距離だから、わざわざ逃げるほどではない。
ホルヘは背は高いが軟弱そうな少年だし、強引な真似はできないと侮ってもいた。
そばに来て水汲みを手伝ってくれようとしたが、お断りだ。
なんのかの理由をつけて体にさわろうとする、彼女にはそう思えた。
ホルヘにこんな冷たくするのはリマだけじゃない。
村の女の子はみんな、彼から距離をおいている。
女の子ばかりか、村中から避けられるのだ。ホルヘの父と兄は反政府ゲリラと通じているのがわかり、軍隊にしょっ引かれた。
おばあちゃんもあいつとだけは関わるなと言う。
小さい頃はよく一緒に遊んだものだけど、彼が「村八分」にされてからはすっかり疎遠になってしまった。
ホルヘがなぜこれほど忌まれるかといえば、ホルヘの父親とロザンナのお父さんとの仲がものすごく悪く、広場でつかみ合いをするほどだったので、そうした感情が子供同士の関係にまで持ち越されことによる。
とりわけ、ロザンナの敵意は激しく、ホルヘばかりかホルヘと関わる者にも容赦しなかった。
いきおい、彼の味方はいなくなった。
実は悪いのは村長のほうで、喧嘩はホルヘの父が村長の不正を暴いたことに起因する。軍隊にしょっ引かれたのも村長の密告によるもので、ほんとうは濡れ衣にすぎないと一部で囁かれていたが。幼いリマにはそうした事情はわからない。
ただ、大好きなロザンナが蜥蜴のように嫌う相手だから、リマもホルヘと仲良くしたくないのだ。多くの子供たちも理由はおなじだろう。
ホルヘはリマに、熱心に話しかけてきた。
リマは一切、相手をしなかったが、ひたすらにしゃべり続ける。
普段の彼なら、無視していれば二言三言であきらめて黙り込むのだが、今夜はしつこい。何事か訴えたくてたまらない様子だ。もう、必死なほどに。
いままでとはどこか違う。
リマは敏感に察したが、どうしてか理由を突き詰める気にもなれず、彼女の態度はこれまで通りだ。
ホルヘが一方通行の会話での話題をついに、火星移住計画にまで持っていったとき。
水を汲み終わったリマは、彼に背を向け、満たしたポリバッグをつかんでさっさと歩きだす。お別れの挨拶もなし。
ホルヘなんかと人類の未来を話し合っても仕方がない。
離れていく間にも、後ろ姿を見つめられてるかと思うとゾッとするほどだ。
なるたけ足早に歩いた。
家に帰ると、リマは息を呑んだ。
待っていたのは、まったく認めたくない場面。
土間におばあちゃんが倒れてる。
動かない。
容態が急に悪化、助けを求め寝床から起きようとして転げ落ち、そのままのたうちながら最期を遂げた様相だ。
あまりのことに、リマは立ち尽くすばかり。
だが。
片隅の暗がりで物静かにたたずむ祖母の姿を認め、リマはほーーっと大きく、安堵の吐息をもらした。
ああ、マリア様!
よかった。生きてた……。
リマは歓喜のあまり泣きそうになった。
おばあちゃん、起きられるほど調子が良くなったんだ。
でも……。
同時に、疑問が生じてきた。
それじゃ……これは、誰なの?
リマは恐るおそる、土間にころがる死体に目を凝らした。
おばあちゃんによく似てる。いや。あきらかに、おばあちゃんだ。
幻などではない。
なんだか頭が混乱してくる。
おばあちゃんが死んだ。
ここに倒れてる。
そんなの、いやだ!
ちがう、おばあちゃんは生きてる。
あそこに立ってる。
ああ、よかった。
だけど……。
不安にかられたリマはいま一度、屋内の隅でたたずむ人に目を凝らし、誰なのか確かめようとした。
それは見間違えようもない、祖母の姿をしている。
けれども、なぜだろう。
視界に入れるだけでゾクッとさせるものがある。
「おばあちゃん」
リマは呼びかけた。
いつも通り、祖母を呼ぶときの声で。
答えてくれない。
「おばあちゃん」
何度呼んでも、やはり答えない。
リマは思い余って、さらに祖母を呼びながら近寄っていく。
相手はようやく、反応を示す。
うなだれていた顔を上げた。
リマは目を疑った。
違う。
おばあちゃんじゃない。
いえ、おばあちゃんだけど。
いつものおばあちゃんと違いすぎる。
だって……だって……ものすごく怖い顔してるもん。おばあちゃん、こんな怖い顔したことないのに。
ちょうど、そのとき。
人類の火星行きを快活な調子で伝えていたラジオのニュース番組が、突如として様変わりしたように物々しいものとなった。
キャスター自身が信じられないといった声で、聴取者に、避難するよう、隠れるよう、そして神に祈るようにと早口で呼びかける。
まるで、津波でも押し寄せてきた現実の大災害を報じるような、落ち着こうと努めながらも切迫感をにじませた物言い。
おびただしい死霊の群れが人々に襲いかかってきた。
国中で、いや世界中で。
え、なに?
リマは耳まで疑った。
どういうこと?
これ、ニュースなの? ラジオ・ドラマじゃないの? なにかホラー系のお話の……。
そういえば。
外の通りがにわかに、騒がしくなったようだ。
火事か交通事故でも起きたのか、人々の叫び声が聞こえる。
だが、今のリマにとって由々しいのは、この家の中だ。
我が家が抜き差しならない場になってしまった。
狭くて粗末だけど、くつろげて、あまえられる人がいるはずの安住の地が。
リマは無理に微笑んだ。
目の前の存在にではなく、いつもの大好きなおばあちゃんに対するときのように。
「お水もってきてあげた。喉かわいたでしょ?」
相手はやっと、返事をしてくれた。
「そう…かい?」
力の抜けきって、ゾッとするようなしわがれた声音だ。おばあちゃん、年取ってたけど、こんな声だしたことなかった。もっと生き生きしてたのに。
それに、声はおばあちゃんからでなく、リマの頭にじかに響いてくる。まるで映画のナレーションのよう。おばあちゃん、口も動かしてない。
「持って…きて…おくれ……お水…を」
おばあちゃんはまるで、獲物を待ち受けていた獣のような仕振りを示す。
まだ本性はむき出しにせず、し止めたい相手をさらにそばまで招こうとする。
「お…い…で…」
おばあちゃん?
行っちゃいけない。本能が忠告する。
おばあちゃんはなおも、力なく手招きする。
「お水…を…おくれ。欲…し…い…よ」
ちがう。
おばあちゃんが欲しいのはお水じゃない。きっと……。
リマがなお逡巡していると、おばあちゃんはとうとう、向こうから距離を縮めてきた。
本性をあらわす直前だ。
お…い…で…
リマは悲鳴をあげて飛びのいた。
霊気としか言いようのない恐ろしいものの実感が、拒絶の反応をさせたのだ。
その拍子に、ぶら下げていたポリバッグを手から落とした。
こぼれ出たたくさんの水が、おばあちゃんのいるほうへ向かって勢いよく流れていった。
すると。
なぜか、おばあちゃんは動きを阻まれた。いまにもリマに飛びかからんとしてたのが。
まるで、水の流れに魔を封じ込める力があるかのよう。
なぜ?
理由を詮索するより先に、リマは状況を利用して動いた。
一目散に、家から逃げだした。
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