ご注意
以下の文章は、もう十年以上も前に書かれたものです

「その他よもやまの予測」

まるで済みません。このコーナー、整理中です。バラバラな順序のまま項目を並べます



☆ クローン技術を推進する研究者とその恩恵を期待する人々にとって、受難の歳月が始まるだろう。
 大多数の人々が新技術の有益性を理解できないことからくる拒絶反応が狂気のように吹き荒れる十年から一世代。
 性急でものの見えぬ人々によってヒューマン・クローニングを隔離する世界的取り決めがおこなわれるものの、しだいに効力を失っていく。

 実際、この馬鹿げた禁止措置は、一九二十年代の禁酒法と同様、本質的な欲求が理不尽な引き締めを受けたことから派生するさまざまなマイナス状況を現出させるだろうが(闇の組織の暗躍など)、アル・カポネのせいでシャンパンやコニャックの評判が傷つくことがなかったのと同様、最終的にクローン人間そのものが人類の敵という評価を受けるまでにはならない。

 酒はたしかに、意志の弱い人にとって、交通犯罪や依存症のきっかけとなり得る。
 だからといって現代人は、意志薄弱な少数者を罪から遠ざけるため、酒を飲む行為そのものを罰しようとまではしない。
 飲酒は今でさえ、イスラム諸国ではご法度とされているが、モスリム圏を取り巻く世界のほうは、晩酌がもたらす悦楽を享受しながら、相反した主義を奉じる人々とけっこう無難に協調し合っているのである。

 クローニングを阻止したがる人々の言い分には、禁酒法の推進者たちと同程度の倫理的根拠しか見出すことができない。
 法規制が必要なのは、クローン技術を悪用したがる一部の人々であり、クローン技術そのものではないと知るべきだ。




☆ 宇宙でやるべきこと。
 火星行きは急ぎなさるな。
 たしかに、火星に人は着陸していない。けれども、人類はすでに、アポロ十一号の乗員が月と関わった以上の深い交わりを火星においてやり遂げている。
 三十年前とくらべた無人探査技術の向上度を考えてみるといい。ロケットが着くまでに一年かかる所から伝送された映像があれほど鮮明なのだ。
 結局のところ、現段階で必要なのは十分な情報を手に入れることであり、人が火星へ降りようが、ロボットが火星へ降りようが、たいして変わりがあるとは思えない。
 当分の間、火星の地面に星条旗を立てたままにしておいても問題はなかろう。
 だれも盗んだりはしない。




☆ 新種の乳酸菌などが開発され、便の臭気を取り去る経口剤 (いまより、はるかに効き目が強い) の常用がエチケットとなる。もしかしたら香水同様、腸内ガスや体臭に芳香を加えられるようにさえなるかもしれない(いや、なるだろう)。

「きみのオナラって、素敵な香りだね。音も可愛いな」
「あなたのオシッコも、美味しそうな匂い」




☆ 整形手術は歯列矯正同様、やったほうがいいことではなく、やらねばならないことになっており、若い世代からは、おそらく中高年世代からも、ブスやイモが一掃される。
 ハイブリッド技術が駆使されるので、脚長やペニスのサイズを調整することも、自然な仕上がりで思いのままである。

「見ろよ、金持ちの国からきた連中だぜ。どいつもこいつも、立派な御面相してやがる」
「お金持ちの男って、あそこが大きいんだってねえ。貧乏人の五倍くらいあるんだってねえ」




☆ 菜食主義のいっそうの広まりと人工肉の普及。肉食はもはや野蛮な行為とみなされる、ようにはならないかもしれないが、健康と動物愛護、食糧事情の三点により、肉食家が少数派に転じることは間違いない。

「たまげた。このあたりじゃ、まだ肉を食ってやがる」
「貧しい土地なんだ。生きるためには仕方ないのさ」




☆ 毒物や過剰な栄養の吸収をセーブする経口剤のおかげにより、いくら食べても成人病や肥満、生活汚染の心配をせずに済むようになる。おそらくはアルコールの吸収量を制限する経口剤も出回っている。




☆ 上記のメリットと相反するようだが、豊かな諸国では、食事回数が一日五、六食になっている。摂取カロリーが増えるわけではない。二、三時間おきに軽食を味わっていくというイギリス式食生活の人体への利点が再評価されたためで、これまでの三食分の食事量を数回に分けて食べるようになるのだ。おおかたのホワイト・カラーが在宅で職務をこなすことによって生じる日課的なゆとりがそうした食スタイルを可能ならしめる(あるいは必要とする)。




☆ バーチャル・リアリティなるものが人々の暮らしのうちでどれほどの位置を占めることになるか、予測するのはむずかしい。
 だが、1985年の筑波科学博覧会。
 会場にひしめいたパビリオンごとの大げさな見世物の中でひときわ喝采を博したのは、進化した映像ではなく、招待歌手によるコンサートやトルコの軍楽隊など、実物による出し物のほうだった。
 やはり、実物のほうが面白い。それもホログラムではない、そのものがそこにいるという意味の実物。
 あのごたいそうな映像博覧会はいみじくも、そのことを教えてくれたように思う。
 しかし、これは個人的な感想である。
 バーチャル・リアリティを応用した物語体験が技術的に可能な段階に達したとして、すなわち、体感そのものによる興奮を味わえるようになったのであれば、空前の娯楽を提供する媒体として人々から熱狂的に迎えられることは確実だろう。
 バーチャル映画のような、商品化の実現するのははるか先のうちに、市場自体がそれを待ち侘びて加熱した状態にあるという売り物は、そう滅多とあるものではない。




『……平均して百万ドルの建設工事ごとにひとりの労働者が死ぬというのは、かつて常識であった。この恐るべき数字はその後大幅に下がり、今では建設工事一億ドルあたり一人といった割合になっている。しかし、こんな予測ができるからといって、われわれはビルの建設を止めはしない』

(ハーマン・カーン著『次の二百年』より)

 二十世紀の人々が何百万もの人命を自動車文明に捧げたのも、おなじ理屈からなのだろう。
 たとえ電磁障害で年ごとに十万人の犠牲者が出るとわかったとしても、進化した社会の仕組みに不可欠と判断すれば、二十一世紀の人々はそれを受け入れるに違いない。

「死んだ? 奴もまた、ついてない」
「不注意だったのさ」




☆ 自動車の自動操縦化。むこう一世代のうちには無理にせよ(※)、自動帰宅装置など、様々なかたちで補助操縦システムが組み込まれていく。

※ 一車体ごとなら現在の技術でも可能らしいが、それらの車輌を道路システムに適応させる (または、道路システムをそれらの車輌に適応させる) のは至難の技となるだろう。

 乗客が自動操縦車の行き先を指示し、カードで払うだけの無人タクシーが出てきたら、運転手たちは失業するだろうか? 覇気のある者は、個人で自動操縦車すなわちロボット車を何台も買い揃えてタクシー会社を経営し、かえって儲けを増やせるかもしれない (なにしろ、運転手を雇う手間がはぶけるのだ)。




☆ 先進派を自認する人たちの予想に反し、ロックのようにけたたましい音楽はすたれる(すぐに、というわけでなく、火星へ移住する時代になっても、今の日本で演歌が受け入れられる程度には聴き継がれていよう)。
 若者に人気がなくなるというわけでもない。
 かえって、未来の学生たちからは、人類の一時期における病理的な魂が発露されたものとして、魅力ある研究対象のひとつとなるだろう。
 ロックのような、大音響が鼓膜を直撃すること自体で興奮や陶酔をさそう音楽が受け入れられるには、社会に自虐的な攻撃性が満ちていることが前提条件である。
 部族共同体で寄り合い、太鼓を連打した大昔。また軍楽隊が鼓笛を鳴り轟かせながら大通りを行進した時代がそうではなかったか?
 あの、人々が暴力的音量のBGMに乗って踊り狂っていた二十世紀後期と異なり、進むべき道のハッキリした未来の人々は自らを虐げる真似はあまりしなくなる。
 それを保守化とか過去への回帰と受け取るとしたら、現代人の未来というものへの展望にあまりにも大きな誤解があろう。
 健康によくない行為でも社会慣習となったせいで、たしなまずにいれば仲間はずれにされたものがあった。
 喫煙だ。
 大音量が耳によくないというのは現代でさえ自明の理だから、やがてはタバコの煙のように敬遠されるようになって当然のはず。




☆ ついでながら、レストランには「防音席」が設置されるかもしれない。




☆ 前にも書いたが、二十一世紀最大の商品こそは空気 (というより酸素) であろう。
 先進国の新築家屋のうち、なんらかのカタチで空気清浄装置が取り付けられないものはなくなっているに違いない。





☆ 角張ったものや流線型のものなど幾何学的強制そのもののようなデザインは人々からますます嫌われるようになり、代わりに自然な丸みを帯びたものが愛好されるようになっていく。(ファジー・スタイル)
 実際、時代の先端を研ぎ澄ますということは、人々が機械的なものや金属的なものをいっそう愛好するようになることを意味はしない。
 むしろ、社会がそうした技術力によって統御されているのを隠したがるようになるはずで、街路や屋内に通信ケーブルや集積回路などをむき出したままにすることは「野暮」として忌まれるだろう。
 コンピューター・テクノロジーは未来社会のはらわたであり、そして、さらけ出されたはらわたはイカしてるどころか、グロテスク以外のなにものでもない。
 適切なたとえと言えないが、こうした未来の人々の美的こだわりには、かつて工業化を推進する開発途上国の都会人が、おのが国の経済が農民の働きによりかかっているのを認めたがらなかったのと似たところがある。




☆ 上記の変化とあいまっての社会全域におよぶ装飾・舗装革命。車道や歩道の表面。駅のホーム。建物の外壁。屋内の床や壁、階段や浴室のタイル。おそらくは自動車の車体表面などに、もっとソフトで自然な質感をもち、目にも安らぎをあたえる (要するに、冷たくガチガチしておらず、転んだり衝突したりしても打撃が軽くて済み、そのうえ頑丈で不燃性の) 新素材が開発され、用いられるようになる。
 これは文字通り、文明世界を覆い尽くす変化となるだろう。

「やだ。この町の道路、アスファルトのまんまよ」




☆ 諸国家の政治的指導者はますます小ぶりになっていき、権限にもしだいに制約が加えられる。
 もっとも、反動は起こるだろう。
 小国の国境内で、かつてのナポレオンや成吉思汗もおよばぬカリスマ性を体現した独裁政治家が台頭することだってあり得る。彼らは、破壊力では第二次大戦時のルーズベルトやスターリンさえしのぐ軍事的手段を行使する備えがあることを誇示するかもしれない。
 とはいえ、彼らの目当ては世界を平伏させることではないし、それを達成するだけのナショナリズムによる後押しにも欠けている。これらの暴れん坊たちは局地的な意味合いにおいてしか世界にとっての脅威とはならない。




☆ オンラインでひとつに結ばれた個人個人がそれぞれの属した国と離反する最初の動き。もしかしたら、ネット上で新生国家の独立宣言がおこなわれるかもしれない。




☆ おおかたの予想どおり、携帯電話は、腕時計やペンダント、指輪など装身具と一体化されることになるだろう。入れ歯の中にし込まれるかもしれない。口述による番号入力でも通話できるようになるはずだから、これが実現すれば、一日中しゃべり続ける人もいるに違いない。




☆ 旅行者やビジネスマンの間では携帯式同時通訳機が普及していて、どこの国の人もどんな国の言葉とも、それを介すだけで意見が交換し合えるようになる。
 すると英語の、従来のような人類の共通語としての重要性は薄れていくのだろうか?
 英語ばかりじゃない。ゆくゆくは、セルビア語もスワヒリ語もヴェトナム語もヒンドゥー語も、よほどマイナーな部族語以外はどこの言語とも交換可能となるはずだ。
 これでは、地球上のだれもが外国語を熱心には学ばなくなってしまうのでは?
 たぶん。超高度演算化社会にあっては、自動通訳機こそが世界共通語となるに違いない。




☆ ワープロやパソコンは、口述筆記型<ディクテーター>が出回っている。すくなくとも、その方向へめざした開発が進められているだろう。そうなれば、筆記ロボットが登場するのとおなじなのだ。

※ あいすみません。たったいま原稿整理に使ってるパソコン、すでに口述入力型になってます(大笑!)。前書きで述べたとおり、二年以上前に書いたものを改稿してお目にかけてるわけですが、そのときには、言葉でコンピューターの入力ができるなどとは、SF映画と同様、夢の機能に思えたんですよねえ。それがなんと、この春、十万円で買ったパソコンに組み込まれておりました。




☆ 政治。
 代議士たちも失業する可能性が高い。
 政治の形態は遅かれ早かれ、多数決による雑なカタチの初歩的民主主義から国民ひとりひとりの苦情や嘆願がスパコンで集計されるという完全直接制による超民主主義へと移行しなければならない。
 多数派の強制によらず、投票結果が描き出すモザイク模様にかぎりなく沿ったやり方で施政がおこなわれる「超民主社会」が実現していないと、どうして言えるか?




☆ 刑法。
 善かれ悪しかれ、死刑制度は廃止の方向に。
 これはまったくの当て推量だが、ひょっとすると個人法<ホーム・ロー>登録制度が発足して、私的制裁が限定された範囲で認可されるかも?  まんざら、鬼が飯を噴きだす話とも言いきれまい。
 現代の特許制度や著作権保護法を見よ。これらも一種の私刑制度の合法化ではないのか。
 増加する一途の民事訴訟に対応し、審議を迅速に処理するため、被告や原告、検事や弁護士などが別々の場所に居ながらにして裁判が可能となる、インターネットでつながれた電子法廷の出現。
 訴訟費用は低価格化へ。
 もしかすると、ずぶの素人でも裁判を勝ち抜けるよう指南してくれる『大法廷』『弁護士さん』などといったパソコン用ソフトが出回るかも。




☆ マスコミ。
 メディアの中央集権システムは存亡の危地にまではいかぬかもしれないが、それでも政治家同様、いちじるしく権威を失う。
 インターネットだ、双方向ケーブルだ、衛星通信だと、目先ばかりにとらわれて大きな流れを読めずにいる人があまりにも多いのだが、いったい、それらの技術革新がもたらすものを人々が受け入れることで成し遂げられるのは、メトロ・メディアなる平面型ネットワークの形成である。
 いわゆるところの情報化革命とはすなわち、マス・メディア=専制メディアに対して勃興したメトロ・メディア=大衆メディアが覇権を奪い取るまでの動きのことなのだ。
 「マスコミを通したものだからといって無条件でありがたがるような、主体性のない者とは思われたくない」ほど、個人個人の自意識が確立されている時代がやって来るわけだ。

 「情報は自分で見いだすもの。娯楽は自分でつくりだすもの」




☆ 小説。
 コンピューターのための創作プログラムは実用の域に達するどころか、本職の人間を駆逐するまでに進化する。
 小説ソフト『大文豪』、作劇ソフト『シェークスピア』といった専用ソフトをパソコンに組み込めば、だれでも楽々と、文豪並みの傑作がモノせるようになるわけだ (そんなもの売り出されたら、真っ先にわしが使いたいわい!)。
 人間の物書きが文壇を追われるのは時間の問題だから、いまのうちに書くだけ書いておいたほうがいい。あえて希望を託すならば、即席麺が市場を席巻した今日、いまだにどこの横丁でもラーメン屋は営業している。本当に美味しい味の物語を提供しつづけるならば、生き残ることは可能であろう。




☆ 演劇。
 観せられるより、演じる。前述したとおり、だれもかれもが美男美女になっているので、アマチュア芝居でもイモっぽい感じはしなくなり、ハードとソフトの支援を受け、芸術面や技術面での遜色もなくなっていく。
 ホログラムなどは問題にもなるまい。
 演じるものがそこに実在している演劇ほど面白い見ものはほかにない。
 最後に、芸術全般に共通することだが、プロとアマチュアとの区分はなくなってしまう。
 「俺が本物」と主張する御仁はなおもいらっしゃろうが、この時代、本物はどこにでもあるものなのだ。




☆ 宗教。
 神は永遠に。
 人は宇宙を知れば知るほど、創造主の英知に驚嘆するであろう。
 ただし、キリスト教の体制は神による恩寵にはあずかれそうにない。
 この宗派は根本的に、ユダヤ教からの借り物にミトラ教やマニ教の衣装を着せた贋作であり、世界宗教となるには無理が多すぎるからだ。
 本当にイエスを敬愛するのなら、神になど祭り上げたりせず、その教えだけを忠実に守っていてほしい。
 西洋人はキリスト教の影響下にあるより、キリスト教から解放されたほうが、はるかにその長所を発揮できるだろうし、そうなってこそ残余の世界に福音 (Good news) をもたらせる。
 代わって、ユング的な集合無意識への探求が人々の心をとらえるかもしれない。
 神はあるかないか、この時代でも人により意見は食い違うだろうけれど、いずれにしても、集合無意識に効果的に働きかけたいなら、神に祈るようアクセスするのがもっとも理にかなったやり方なのだと、知っている人は知っているからだ。

※ 未来の人々も、ユング心理学をオカルトの一種とみなすだろうか?
現代でさえ、ガイア理論が「学説」としてかなり広範な支持を受けている。
筆者は、やがて人々が、集合無意識層への探求を進めていった果て、ついに人類の集合エネルギーの有りようを知覚する手段を確立し、地球内部のマグマの状態をモニタリングするがごとく、その時々に集合無意識層でのエネルギーが流れる方向を突き止め、かくして歴史の動きまでを予測しようとするだろうということに賭けたい。




☆ 教育。
 人類は遅かれ早かれ、「頭のよくなる薬」を手に入れる。
 すなわち、なんらかの方法で脳の働きを活性化させることに成功するから、人々の知的水準は相対的に向上するだろう。その行き着く先は、知的エリート階層の消滅である。
 もう、大学はいらない。




☆ ショッピング。
 この時代でも、大量消費システムは相変わらずだ。
 商品のブランドも大事にされるが、現代と異なるのは、大元から仕入れた共通項に店ごとの付加価値を組み合わせて売る個人ブランドの隆盛であること。
 「出来合いのパン種を使っても、焼き方は店ごとで個性化」というやり方だ。
 たとえば、コカコーラは世界中の無数の小売業者に、例の原液を卸す。
 販売する側はそれぞれ、渡された原液にさまざまなやり方で手を加え、その店独自の味わいをもった飲み物に仕立てて、客に供する。
 そうしなければやっていけなくなるほど、人々がありふれたブランドなど受け付けようとしない時代がやって来るのだ。




☆ スポーツ。
   これも、観るよりやる方向へ。
 科学の進歩した未来社会では逆に、運動音痴はいなくなる。
 非常に効き目のある栄養剤や筋骨の増強剤、ことによると外科的処置のおかげで体位や運動能力が向上し、だれもがオリンピック出場者並みの技量の持ち主になっているだろうから、プロ選手団の出る幕はなくなってしまう。
 したがって、オリンピックのようなバカ騒ぎも廃止される。さもなくば、チェコのスパルタキアーダのような全員参加による祭典として生き残る。
 実に健康的だ (笑)。




☆ 人々の間から、人類がこれまで通りの人類のままであることにもはや我慢できなくなるという意識が芽生える (バイオ・ルネッサンス)。
「神は人に翼をあたえはしなかった。だが、翼を創造する才能を授けられた」
 こういった言い方は、それら超人間を志向する人たちの好むものとなるだろう。
 当然、反動的な勢力も台頭する。
 ニュー・ヒッピーとでも呼ぶべき進歩拒絶集団は、風呂に入らず、体内香水も使わず、衛生マナーを無視することに喜びを感じ、バイオテクノロジーのもたらす一切の恩恵を退けて不潔愛好症的な悦楽にふけり、ことによると原始人そのものの暮らしを実践しようとするかもしれない。こうしたグループによる「命綱で支えられた退行」を可能ならしめるのもひとえに、飛躍的な技術進歩と経済成長がもたらす恩恵なのだが。
 つまるところ社会は、それら進歩派、保守派、折衷派がせめぎ合い、入り乱れた混沌たる様相のうちに、こうした人々の総和が望む状況を、発展する技術力と経済力がその時々に許す範囲でしだいに実現させていく。




☆ チンパンの頭を別のチンパンの胴体につなげたら、一週間生きた……二十世紀末でさえ、生体科学はここまで進んでいる。一世代のちにどこまで達するかは想像を絶するものがあろう (とはいえ、どこへ達するかは割り出しがつけられている)。
 ここで断言できるのは、一世代あとには、人々の将来に対する信頼度がいまよりはるかに増しているということ。
 経済成長にせよバイオテクノロジーにせよ、そして宇宙開発にせよ、その実現についての期待値が、現在の「ひょっとしたら」から「絶対に」へと高まっているに違いない。人々はもはや、少数の選ばれた研究者が自分たちとかけ離れた場所で技術的革新を成し遂げるのを傍観し、その成果を受け取るだけではなく、現におこなわれつつある人類のありようを変革する動きに、小さな役割であれ自分が参加することに興奮を覚えるまでになる。  そうした幾十億もの同意があってこそ、「生命の革命」は推進できるのだ。




☆ 地球の破滅? 筆者がここで言いたいのは、案じて動かぬことではなく、希望と共に進むことだ。終末論者らは、およそノストラダムスが本や映画でもてはやされるようになった頃から、やがて地球が汚染され、その資源は使い尽くされ、人心ばかりか人身も荒れ廃れ、気候までが変動し、ついには由美かおるが海岸で踊りだし、とにかくロクでもないことばかりが起こると訴え続けて (というより、騒ぎ続けて) きたわけだが、この一世代のうちに彼らは、的中率百パーセントの予言詩によるご宣託にもかかわらず生き残りそうな様子でいる残余の人々の前に面目と信用を失ってしまったではないか。




今へ戻る