法案で歯止めをかけるだって?
まるで前近代性の固定観念だけに突き動かされたようなヒステリックな対応。
まさしく、ガリレオの審判や魔女裁判の時代を思わせる蒙昧ぶり。
あまりにも大勢の人々が、人類の進歩に輝かしい福音をもたらす革新的変動の通過点で起こるべきことをなにか、恐るべきモンスターでも呼び出す黒魔術と混同しているらしい。
彼らは、二十世紀がなお進歩への反動と解放への拒絶に捉われた百年だった事実を、その指導者の政策を通じて証明してしまった。
なぜ、クローニングが問題となるのだろう?
神の領域を冒す暴挙だから? そんな答えを聞かされたら、人々の宗教的道義がわからなくなる。
年間数百万件もの嬰児中絶が容認される地上で、ひとりのクローン・ベイビーが誕生すると聞いただけで人類の尊厳が侵されたかのような大騒ぎをするとは。
ガリレオの受難から四百年以上たった現在にいたってなお、起こるべきことの必然性を古い道徳律にしがみついた人々に納得させなければならぬ側にある者の悩みは尽きない。
当たり前のことをどのように説明すればわかってもらえるのだろうか?
クローニングとは、SF映画でマッド・サイエンテイストがミュータントを造りだすのとはまったく別の行為だということを。
法的手段によって遺伝子を組み替える研究にストップをかけようというのなら結構である。どのみち、クローニングにおいて遺伝子の組み替えがおこなわれることはないからだ。
クローン人間とは、遺伝子操作による野菜や穀物のような、「造りだされる」ものとは違う。新種などではないのである。
あえて適切な形容を見つけるなら、「再び育てられる」ものだろうか。
クローン・ベイビーが生まれたとしても、バケモノでもなんでもない。現に存在する当たり前の人間とおなじ当たり前の存在だという事実への認識をもっと深めてもらいたいものだ。
実際、人が人の複製をおこなったからとて、人が神の所業を奪ったことになるわけがない。
クローンが何体造りだされようとも、そうした複製の原版となる人間の遺伝子をデザインしたのは、あくまで神以外のなにものでもないはずではないか。
クローニングとは要するに、神が太陽のもとにもたらした生命を再生産するだけの技術だ。学者たちの役割には根本的に、コピー取りの分際を超えるところはなく、バイオテクノロジーでナスやカボチャの合いの子を産み出すよりはるかに謙虚なおこないなのである。
進歩したはずの世界は新しい世紀を迎えるにあたって、なお中世的偏見から抜けきらぬばかりか、抜けることさえ望まないことを証する恐るべき醜態を、醜態と気づかず、おのおのは神と良心に従っていると信じながらさらすのをはばからない。
ついに今世紀のうちに到来したバイオ・ルネッサンスの幕開けとなる人道的新技術を、核拡散防止協定のような隔離すべき危険物の対象として扱うという仕打ちをもって迎えた各国の指導者たちは恥を知るがいい。
かかる受け狙いの政策で人気取りをはかった小者揃いの政治屋集団は、ただ科学史にのみ悪名を刻みつけられるであろう。
だが、結構。
大きな前進には大きな反動がともなうとすれば、悪役は必要だ。
そして、すすんで憎まれ役を買って出たいかなる国の権力者といえども、人類のヒロイックな側面を体現する科学者たちの建設的情熱を法で抑えつけ、凍結させることは絶対に不可能である。
今世紀末のヒューマン・クローニングにまつわる取り返しがつかなく思えるほど愚劣な措置( 世界的取り決め! )も、長い目で見れば、人類文明の成長曲線をいちじるしく鈍らせるにはいたらなかったということになるのかもしれない。