ご注意
以下の文章は、もう十年以上も前に書かれたものです

「最終社会」



☆ 以下に述べる状況は、あと一世代で実現することではなく、二、三世代は先の話になるだろうが、人間型コンピューターの大規模な社会進出の結果、「仕事はすべて、コンピューターがこなしてくれ、われわれ人間はその労務による成果を完全に搾取して暮らすようになる」というのはあり得ぬどころか、まさしく未来のあるべき方向であり、そして実のところ、人類の究極的な目標にほかならぬものなのだ。

 二十一世紀後期以降における社会の経済構造は、以下の三つのグループから成り立つ。
@ 無数のロボットすなわち電子頭脳機器を所有し、管理する一握りの資本家。
A 労働による成果の全部を資本家に搾取されるロボットたち。
B さらに、それが生みだす利益の「おこぼれ」にあずかる残余 (つまり大多数) の人間たち。

 三番目のグループに属する人々がみじめな思いを抱くことは、けっしてないだろう。
 未来社会にある彼らは、今日の基準からいえば、「おこぼれ」でそうとう豊かな生活が営めるはずだし、自分がそういう境遇におかれるのを歓迎するに違いないのだから。

 この「おこぼれ」なるものがいかなるカタチになるか、予測がむずかしいのだが、今日のブルネイ王国の実態を思い描いてもらえればわかりやすくなるかもしれない。

 世界一金持ちの王様が統治するこの国の民が受けられる待遇の数々。
 無税。医療、教育、ガス料金は無料。住宅や自動車を買うための助成金も国から出る。

 未来社会の人々が受ける「おこぼれ」は、これらブルネイ市民への恩典をはるかに上回って贅沢なものとなるはずだ。

 現代のブルネイにあっては、地下エネルギー資源がもたらした膨大な歩合収益のごく一部を、メジャーによる採掘への是認者たる国王とその一族が、生産とも流通とも無関係な、ただボルキア一族の治める領土に住んでいるだけという「臣民たち」の上にバラ撒くというトリックで国家という形態を在らしめている。

 だが、もしもボルキア一族が「王国ごっこ」をやらずに領地の住民たちを厄介者として扱い、メジャーからの収益を独り占めしたとしたら、暴動が起きるのは間違いない。

 人間型ロボットの高度計算機能がもたらす社会のありようが、上記のブルネイ王国と似通ったものになったとしても不思議はないという気がする。

 未来社会にあって警戒すべきなのはやはり、電子頭脳による人類への反乱ではなく、電子頭脳の進出によって職を失った、すなわち生活の場を奪われたと思いこんだ人間による資本家への反乱であろう。

 世界中で一握りの「ロボット長者」たちは、なによりもこれを恐れなければならず、それゆえなんらかの施策を通じ、たいして仕事をしない、またはぜんぜん仕事をしない大多数の人々に対し、手厚い福祉で日々の糧を供与するようになるのだ (まさに、現代のブルネイにおけるのと同じように) 。
 どのようなカタチで?
 政府がこれらロボット長者から徴収した莫大な額の税金の一部を国民すべてに「生涯年金」として振り向ける、というやり方が一番実際的と思われる。


☆ あるいは、こういうカタチになるのか?

 レンタル用ロボット会社の決算時における株主総会ならぬ親主総会。
「あなたはロボット五十台の親主ですから、彼らが今年働いた分の四割にあたる額をお払いいたしましょう」

 ロボットを所持する人は、めいめいで気に入った配給会社に委託する。そして、貸し出しによって得た利益から一定の歩合を受け取るという算段だ。
 かくして、人々の豊かさはその所有するロボットの台数によってランク付けされることになろう。
 このシステムでは、所有台数の多い親主ほど多くの利益を受けられるわけだが、やはりいちばん儲かるのは、それら無数の親主からの提供品を一括して扱う配給会社<メジャー>である。

「あんまり欲張り言いやがると、てめえのロボットは使ってやらねえぞ」
「いいもん。もっと高い値で使ってくれるところへ持ってくもん」


 こうした人間型ロボットによる職場の占拠と職場を追われた人々を包括する生涯年金社会への移行は、ほとんど摩擦の見られぬゆったりとしたカタチで進んでいくだろうし、また、そうあることが望ましい。
 彼らは、つまり人類の大部分は、演算化経済社会の居候には違いないが、世の中を支える重要な階層を成していることに変わりはない。
 史上初めて、「居候」という存在が、はるか昔の「奴隷」という役割と対置されることになるわけだ。
 百年後の人類文明の形態とはズバリ、奴隷化された超高度計算力の上に築かれる「居候制度」であるといえよう。

 かかる状態を、退化だと思い違いしてはならない。
 人はだれも、奴隷になることは望まないが、居候 (それも現代人よりはるかに恵まれた身分の居候) として遇されるのなら、けっして悪い成り行きとは感じないだろう。

 仕事をしなくても、満ち足りた暮らしを送るのに充分な収入がどこからか支給される。
 大多数の人たちはもともと、そうなってくれたほうが楽だと思い続けてきたのではなかろうか? かかる念願のような状況をあらしめる変革が人間型ロボットの大量導入によって成し遂げられるとしたら、ロボットに職場を奪われたことで文句を言うものなどはおるまい。
労務の場をロボットにまかせるのは、社会を彼らに支配されるのとは違うのだから。
 覇気のある者ならば、ロボットがなした働きによる利益のおこぼれで甘んじたりせず、ロボットをこき使う身分となって、より多くの収入を自分で稼ぎ出すことだ。

 こう言われるかもしれない。
「あと百年で世の中、こんなになるわけないじゃないですか。バカバカしいとは思わんのですか」。
 筆者にもわからない。
 実際、マルクスも泡をふかす未来図には違いあるまい。
 だが、これからの百年間、コンピューターがこなせるようになる計算量の指数関数的伸び率と人類というものの性格を重ね合わせると、かかる予想が浮かび上がってきてしまうのだ。

 換言するなら、いまの計算力の伸びがいつまで維持されるか、筆者の人間性というものへの見通しがどこまで正しいかによって、わが予測の信頼性は定まる。
 人類の進歩にもいつか停滞が訪れるかもしれないが、願わくば、すべての者がロボットワーカーに居候して暮らせる身になったあとでそうなってもらいたい。



次回は、西暦2010年の大変革


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