日本のアニメーション文化は世界をリードしているという不思議な認識が存在する。 たしかに今日、日本のアニメ・ゲーム産業は世界有数の巨大な市場規模を誇る。 すぐれたアニメ作家も存在し、それらの才能が世界の映像文化に貢献している事実は否定できない。 だがほんとうに、「日本のアニメは世界一」だろうか? 六十年代の流行で、マカロニ・ウエスタンというものがあった。 イタリアの映画人がヨーロッパで撮影した西部劇スタイルのB級アクションの総称だ。 安っぽい作品が多く、批評家の採点も散々だったのだが、本家ハリウッドの退潮につけ込むように世界市場で幅を利かせ、それなりの人気を得るのに成功した。 すくなくとも、一定の層からは支持されたわけだ。また悪評ばかりではなく、沈滞したハリウッド西部劇に新しい流れをもたらしたと評する人さえいる。 今日、映画マニアの間で高値で取引されるのは、本家西部劇ではなく、こちらのまがい物に関連した品々のほうである。 いかにも嘘っぼいアメリカ開拓時代が描かれたマカロニ・ウエスタンはなぜ、受け入れられたか? 本家ハリウッドの『赤い河』や『大いなる西部』のような、撃ち合い場面は少ないが開拓期の雰囲気をたっぷり味あわせるスロームービーに対し、マカロニ・ウエスタンはまさに、手っ取り早く西部劇アクションの旨みが味わえるジャンクムービーにほかならない。 人気の秘密はその開きなおった安っぽさにこそあった。 管理社会に抑えられ欲求不満が鬱積した人々、何も考えたくないし何も学びたくないという層から、手軽なストレス発散の手段として愛好されたのだ。 その後ハリウッドも、マカロニものの味付けを取り入れ、『100挺のライフル』や『戦うパンチョ・ビラ』といったアクションの見せ場だけを売りにしたようなものに手を染めるまでになっていく。 しかし。 イタリア製西部劇は七十年代に入り、にわかに不振となる。 似たようなものばかりで食傷されたこと、ハリウッドをニュー・シネマの波が洗い、西部劇のスタイルが新しくなったことなどが不利に働いた。 マカロニ・ウエスタンは、時代の香りをはこぶ新鮮な風を欲する観客のニーズに応えられず、商業的に淘汰されてしまったのだ。 筆者は、日本の秋葉原系文化もいずれ、マカロニ・ウエスタンと同じ衰退の道を歩むのではないかと見ている。 なぜなら、この世界には日本のアニメを受け入れる寛大さがあるにしても、日本の「アニおた」のほうは世界のすべてを受け入れられるようには出来ていないからだ。 その隔たりがますます顕著なかたちとなってあらわれ、日本アニメの一時的な優位は奪い返されることだろう。
けれども、わが国の漫画やアニメの愛好者は西洋そのものにかぶれたわけではない。 それどころか彼らは、西洋の本質を何もつかんではいない。 ほんとうに欧米人の進歩的なスタイルに憧れるなら、日本製コミックはもっとフェミニズムに即した内容になっているはずだ。 日本のポップ・カルチャーは、西洋美学にぞっこん惚れ込んだマニアのものなどではない、西洋世界(露骨に言うなら白人世界)から抽出した「和世界」とは異質の美が濃縮された魅力で成り立つ。 そのような日本の漫画やアニメに登場する金髪碧眼の美少女について、筆者はこう評している。 「日本のアニメおたくというのはたとえれば、洋菓子のクリームを舐めたがるだけのお子様。原乳は飲んでくれないし、おなじ乳製品でもチーズは抵抗が強くて受け付けない」 いかにも。 クリームは牛乳を濃縮したものなのに牛乳とは別物である。 甘みを増し、香料を加え、リキュールも加え、ここまで品が変わればというほど、牛の体内から搾った原材料をかぎりなく洗練したものだ。 当然、口当たりは良い。 だがそれは、自然な生臭さの排除された、まやかしのまろやかさにほかならない。 ずいぶん昔のTVコマーシャルでこんなのがあったのを思いだす。 白人の家庭で父親が、幼い娘に百パーセントの天然果汁を飲ませながら、日本語で視聴者に語りかける。 「ワタシノ国デハ、本物ノ味ヲ覚エサセルマデハ、偽物ノジュースハ飲マセマセン。本物ガワカラナイウチ二偽物ヲ与エルト、子供ガ味音痴ニナッテシマウノデスカラ」 たしか、こんな内容の台詞だったが。 そう、味音痴。 実際、子供に本物のジュースと偽物のジュースとを目隠しで飲ませると、人工果汁のほうを美味しいと評し、天然果汁は吐き出すという。 日本の二次元系美少女マニアは十中八九、異性への嗜好が「味音痴」に陥った状態だろう。 アキバ系用語の「カワイイ」とか「萌え」とは、そうした人体生理に反する、きわめて人工的で倒錯的な魅力にとらわれた状態をあらわす言葉と言って差し支えない。
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キルロイ見てるぞ
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