中学生ではまだわからない?
第二次大戦小史



あんな大勢の人があまりにも悲しい死に方をしたのは、ずっと大勢の人があまりにも愚かだったからです



はじめに 大戦前夜 ポーランド フランス イギリス 地中海 ソ連
日本 合衆国 大東亜 山本 挟撃 給仕と厨房 ムッソリーニ
国防圏 第二戦線 特攻 ベルリン ポツダム 審判 おわりに






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 はじめに



 第二次大戦の歴史を語るのに、自分くらい不適切な者はない。
 学識、経験、人格、筆力……どれをとっても不足なのに加え、当時生まれてさえいなかったのだから(いや。そこまで言ったら、フランス革命も戦国時代もだれにも語れなくなってしまう)。

 それを恥とも思わずこうしたページを立ち上げたのは、近来の、漫画本だけで善悪をわかった気でいるような、戦争について語れるはずのない者ほど熱弁をぶつという風潮を憤っての挙にほかならない。
 ひるがえせば、小林ほしのりのような輩が本何冊分の能書きを垂れるのだったら、万人が思うところを語っていいわけだ。

 これから述べるのは、見解であって、歴史ではない。

 門外漢が好き勝手をほざいたものにすぎず、史的資料としては軍票一枚ほどの値打ちもない文句の羅列である。
 それでいて、最高の学問の場に居座り、縦横に資料を活用できる先生方とくらべても遜色ない、真に迫る主張をしたと自負できるのだ。

 もっとも、戦争の話をするのに教養の度合いが意味をなすとは思えない。
 実際、あの戦争がアジアに解放をもたらす正義の闘争だと言い出すような人は、大学でなにを学んだか疑いたくなってくる。
 小学生の道徳心さえあるなら、災厄の月日の本質は一息のうちに言い当てられるはずなのに。


「あんなに大勢の人があまりにも悲しく死んでいったのは、
ずっと大勢の人たちがあまりにも愚かなままだったからです」



 大戦前夜



 世界のどの国の人も、あまり寛容ではなかった。
 だれもが自分の国のことしか考えていなかった。

 新しいモラルが姿をあらわしていたとはいえ、世界はあくまで自国のことしか頭にない諸国民に主導され、その中で勝ったほうが主役となり、ようやく受け入れたモラルのもと、打ち負かされたほうを悪役として裁いた。
 時は、適者に勝利をあたえ、時に従えない国民を侵略者として歴史に刻みこんだのだ。



 欧州の第二次大戦は第一次大戦の延長戦であり、ドイツ語をしゃべる民族によって、戦勝国が彼らを虐げるベルサイユ体制への報復として企てられた。

 敗戦の苦渋と恥辱に押し潰され、経済恐慌による追い討ちで生活を脅かされたドイツ人は、個的なアイデンティテーを保つには、民族自体の優等ぷりを世界に知らしめねばと感じるまでに追い込まれていた。
 国威の発揚がなければ、国民一人一人の安らぎも得られぬという危険な精神状況に。



 八千万の人々はついに、そうした集団病理を一身に具現したような男を指導者に選ぶ。
 国家社会主義ドイツ労働者党の党首アドルフ・ヒトラー。

 彼は偏執狂に間違いないと言われている。
 しかも同じほど奇矯な取り巻きが彼を引き立てはしたのだが、政権の強固さは、普通の暮らしをする老若男女の熱烈な支持によるものだった。
 とりわけ戦争を知らない若い世代ほど、ドイツに都合のいいことしか言わない、自己顕示型の指導者に熱狂して歓声を送ったのだ。

(改稿中)
 この事実を銘記してもらいたい。
 第三帝国の民衆は、騙されたわけでも強制されたわけでもなかったということを。


 硬直的な指導者のもとで連帯したドイツ人たちは、経済と軍備を立て直し、自尊心と失われた領土をしだいに取り戻していく。
 彼らは、ザール、ラインラント、そしてオーストリアまでを併合し、一体となした。

 その間、わけなくドイツを威嚇できたはずの二大戦勝国、イギリスとフランスは傍観するばかりだった。
 英仏がヒトラーに好き勝手を許したのは、強国となったドイツが、なによりも恐るべき共産主義ロシアへの防波堤の役を果たすことに望みをかけたからに違いない。
 この期におよび、ドイツ、フランス、イギリスで血を流し合い、西側世界が共倒れになってしまえば、覇を制するのはスターリン支配化の赤い帝国だけではないか。
 そうした期待と迷いが融和政策となってあらわれる。

 ついに英仏は、チェコスロバキアをドイツへの貢ぎ物としてあたえ、開戦を回避することさえした。
 東欧はドイツにまかせよう。だから矛先を東に向けてソ連と戦い、西欧を共産主義から守ってもらおうではないか。それでドイツとソ連がせめぎ合い、どちらも力を弱めてくれるなら、英仏にとって願ったりというものだ。

 だが事態は、そう都合よく運ばなかった。
 突如としてヒトラーは、国力をあげて立ち向かうべき宿敵ソヴィエトと不可侵条約を取り交わしたからだ。

 このときの全世界的な驚愕ぶりは特筆ものである。

 あわてたイギリスとフランスは、ドイツとソ連の狭間で困窮するポーランドに支援を約束し、ヒトラーを牽制しなければならなかった。
 かくしてポーランドの後ろ盾となった世界の二大強国を相手取ることになれば、さしものヒトラーも無作法を控えるだろう。

 イギリスとフランスの読みは、今度も間違っていた。
 ドイツ人には「わが闘争」という、ヒトラー自身の手になるバイブルがあたえられている。

 その本によれば、ドイツ民族は、東欧に勢力を拡張し、ソ連から豊かなウクライナ地方を奪い取って、彼らに繁栄をもたらす生活圏とせねばならない。
 ヒトラーに全欧州を制覇する意図まではなかったとしても、「わが闘争」がドイツの未来を示す道標となっている以上、遅かれ早かれ、それは行動に移されるはずだ。

 今現在、ナチスが憎むべきソヴィエトと手を握り合ったにせよ、それは一時のまやかしであり、いずれは両国の存亡を賭けた総力的な交戦状態へとなだれ込んでいく。
 そのソ連に攻めこむ前準備として、ポーランドを隷属させることが不可欠だったのだ。

 さらにヒトラーもまた、相手の出方について、たかをくくっていた。
 迅速な軍事行動でポーランドを叩きのめせば、英仏にはこれまで通り、眉をひそめるだけで動く猶予などあるまい。

 ドイツ国防軍がポーランドの領内に押し寄せていった。

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 ポーランド



 ついにイギリスとフランスは、ヒトラーの楽観を裏切って、ドイツに宣戦をおこなう。
 ヒトラーは落ちこんだ様子だが、それでポーランドでのドイツの軍事活動に影響が出るわけではなかった。



 ドイツ軍は革新的な戦術によって、めざましい勝利を収めていた。
 前大戦では歩兵の盾にされただけだった戦車を、大規模かつ組織的に投入。これを急降下で爆撃をくらわせる空軍と協働させることで、相手側を浮き足立たせ、壊乱に陥れる。  

 これこそナポレオンの戦術――敵軍に砲弾を撃ちまくり撹乱したのち、騎馬軍団を突撃させて陣形を切り崩すやり方――を二十世紀の戦場に的確に甦らせたものにほかならず、驚異をもって「電撃作戦(ブリッツ・クリーク)」と呼称された。

 各所でドイツ軍は、騎馬で立ち向かうような旧式装備のポーランド軍を撃破していく。
 これでは、兵力は同数でも、戦力にハンマーと砂糖菓子ほどの差が出るのは致し方なく、意気洋々でいたポーランドの将兵は、数日のうちに首都ワルシャワまで押しやられてしまう。
 ドイツと対等に張り合うはずだった国がかくも脆く敗れ去ると予想できただろうか。

 当時、英仏軍と向き合う西部戦線にあてがわれたドイツの守備軍は薄衣のように弱体だった。フランスから仕掛けてはこないと踏んだヒトラーは、戦力のほとんどを東部戦線に振り向けるという冒険に出たからだ。

 ポーランドが攻撃された場合、大々的な戦略的支援をおこなう手筈の英仏軍がこの好機をとらえれば、西からの攻勢にドイツ中が恐慌に陥ったかもしれないが、英仏両国に本心からポーランドのため血を流す気はなかったとしか思えず、同盟条約に力を得てドイツに立ち向かった気の強いポーランドは侵入者に領土を蹂躙されるばかりだった。

 首都に追い詰められたポーランド人はなおも抵抗を続けたが、彼らのもとに援軍が駆けつけるでなく、ドイツ軍は圧迫を強めていく。
 いや。ソ連軍が東から越境して、押し寄せてきた。
 ドイツとの不可侵条約の代償として、ポーランドの東半分をソ連が分け前にできる取り決めがなされていたのである。

 ポーランドにもはや、救国の望みはなかった。
 こうして、約束された英仏の救援が得られぬまま、包囲されたワルシャワは陥落。国土はドイツとソ連から分割して統治される悲運に見舞われる。

 第二次大戦の主戦場はベルリンとモスクワにはさまれた東ヨーロッパの広大な平原一帯であり、この地域だけで数千万の人命が失われている。
 ドイツとソ連の二大国が絶滅戦を繰り広げる渦中で、重要な地理的位置にありながら小国にすぎなかったポーランドには理不尽なまでの犠牲がもたらされるのだ。

 それにしても、なぜイギリスとフランスは動かず、ポーランドを見殺しにしたのか?
 大国意識が抜けきらぬ両国は、ヒトラーと対戦するにあたっても、連合して宣戦布告するだけでドイツに兵を引き揚げさせる絶大な抑止力になると信じていたのではないだろうか。


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 フランス



 さて。
 ポーランドはわずか一ヶ月のうちに崩れ去り、同盟国救助のためドイツに宣戦したはずのイギリスとフランスにとって、戦い続ける理由がなくなってしまった。
 いったい西欧の人々は、ドイツと戦うことをどれほど望んでいるのだろうか?
 とりわけ快楽主義のフランス人の間では、戦争などどこ吹く風といった厭戦気運が広まっていた。

 前線では、「まぬけな戦争」と呼ばれる、不可解な膠着状況が訪れる。
 両軍の兵士は、国境の両側に布陣しながら、撃ち合うこともせず、のんびり日向ぼっこを楽しんでいたのだ。
 ヒトラーは、英仏に対し、仲直りの申し出さえおこなう。
 二度目の世界大戦に踏み入ったはずのヨーロッパはどうやら、あっけなく平和を取り戻せるかのような雰囲気だった。

 その裏で、ドイツによる西方進撃の大がかりな準備が着々と進められていた。

 第一次大戦での甚大な犠牲に懲りたフランスは、マジノ戦と呼ばれる数百キロにもおよぶ長大なトーチカ群を、巨額の血税を注ぎこんでドイツとの国境沿いにあらしめ、東からの攻撃を完全に防ぎ得ると豪語していた。

 これに対しドイツ側は、甲冑の隙間から脇腹を突き通すやり方を採択。
 つまり、隣接する中立国のベルギー、オランダを通って、マジノ線にはばまれずにフランス領土になだれ込むという、すこぶる妥当な作戦計画を立案する。

 第二次大戦でもっとも評判倒れに終わった戦争道具のひとつに、戦艦大和がある。
 その百倍も役に立たなかったのが、このマジノ大要塞だった。

 前準備としてデンマーク、ノルウェーへの侵攻が成功裡におこなわれたのち、いよいよ、一大博打となったフランスへの大進撃が開始された。

 ドイツは圧倒的優勢を誇っていたわけではない。
 逆に、総戦力は英仏側のほうが優っており、彼らは堅固なマジノ線の背後で相手の自滅的突撃を待ちかまえている。

 しかし、連合国側の戦車戦術は旧態な発想のままだった。
 さらに、英軍と仏軍では意思の疎通もままならず、有事の際駆けつけるべきベルギー、オランダとも緊密な協調が取れずにいる。
 イギリス兵はともかく、防御の主体となるフランス兵のほうは戦う気がないも同然だった。

 優秀な参謀本部のもとに統一されたドイツ軍は、戦車の機動性と空軍力をかけ合わせた新戦術により格段に強化されている。訓練、戦歴に関わりなく、将兵の士気は旺盛だった。
 なによりも彼らは戦うことを欲していたのだ。

 オランダ・ベルギーに布陣してドイツ軍を迎え撃とうとする英仏軍の意表を突いて、ドイツの機甲部隊は通過不能なはずのアルデンヌ森林地帯を踏破、手薄な防御戦を突破するや、洪水のようにフランス領内へとなだれ込んでいった。
 破られた守備陣の手当てにうごかせる予備軍はひとつも残っておらず、連合軍は総崩れとなって敗退する以外になかった。

 西欧の秩序はひっくり返された。
 ナチの軍隊の前になす術もなく生活圏を蹂躙されるという、考えられない状況が現実となったのだ。

 フランス北部に遮断された連合軍主力の生き残りは、かろうじてドーバーの海岸まで落ちのびるが、数十万の英仏軍にとって最後の拠点ダンケルクにまでドイツ軍は迫ってきた。
 しかしヒトラーは、今日でも解き明かされない理由により、機甲師団に進撃を停止させる。
 連合国兵はその隙に、空爆に痛めつけられながらも、海を渡りイギリスへと逃れていく。
 残されたフランスの国土と民衆をドイツの支配にまかせて。



 かくしてフランス軍首脳は、パリに入城したドイツ軍との休戦条約に署名。
 前大戦の屈辱を晴らしたドイツ国民は、自らの軍事力と民族的優等性への自信をいよいよ深め、思いきった作戦で大勝利をもたらした総統への忠誠は確たるものとなる。

 自分たちは、ドイツ民族の正当な権利――つまり、祖国がヨーロッパを覇する大国となること――を妨げるべくのしかかっていた体制そのものを覆したのだ。
 もはや、世界に冠たるドイツを抑えつけるものはなにもない。

 ドイツの敵で残っているのは、ドーバー海峡の彼方で、敗残のみじめさに打ち震えているはずの小さな島国だけだった。
 その国で、あらたに指導者となった人物は、国民に向けて重々しい演説をおこなう。
 「フランスの戦いは終わった。これからは、イギリスの戦いが始まるのだ」


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 イギリス



 ウインストン・チャーチルは、自身のことを疑いもなく、英語という言葉を剣のような武器としてふるい、民主主義を滅ぼそうと押し寄せる全体主義なる巨人族を打ち倒す神話の英雄に見立てていた男だろう。

 彼は、イギリス貴族のもとに嫁いだアメリカ人の母親から産み落とされた。
 父親のほうがアメリカ人だったら英国の宰相にはなれなかったと言われるが、雄弁と達筆とで、イギリスとアメリカが、「英語国民」という同一種族の国同士であり、かけがえのない運命共同体だという連帯感を抱かせることに情熱を傾けた。

 若い時分から世間を騒がせる話題づくりに長けていたチャーチルは、祖国がもっとも危地に陥った時、もっとも多難な問題に対処すべく、もっとも高位の役職に就任する。

 このチャーチルにヒトラーは、和平交渉を申し出たのだ。

 ヒトラーが本心からイギリスと敵対する気はなかったという説には信憑性がある。
 ナチズムの最大の敵は共産主義であり、狙うべき最大の獲物はソ連領土のウクライナとコーカサスだった。
 来たるべきスターリンとの存亡を賭けた闘争にもてる総力を注ぎこまねばならないヒトラーはむしろ、イギリスとの同盟を切望していたはずなのだ。

 世界の海は大英帝国が、欧州の陸土は第三帝国が、それぞれに支配権を確立させ、英独は兄弟国家として協調しあう。
 これがヒトラーの思い描いた理想だが、そうした理想が実現するのをもっとも望まぬ人物こそ英国首相チャーチルだった。

 チャーチルから断固としてドイツと戦い抜くという意思を表明されたヒトラーは俄然、英国上陸作戦の立案を命じる。

 フランス戦線で大量の戦争道具を失ったイギリスでは、民兵に配る銃さえ工面できず、いまドイツ軍に上陸してこられると、まさにお手上げだった。
 しかし海の状況はそれほど悲観的でなく、自慢の海軍が海峡を守ってくれている。
 とはいえ、強大なドイツ空軍の前にいかほど効き目をもたらす護符となるだろうか。
 ドイツはまず、制空権を奪い取ればいい。制空権さえドイツのものになれば、ドーバーの狭い水域ではイギリス艦隊などたやすく撃滅でき、制海権をも握ったことになるからだ。

 英国決戦とも呼ぶべき、少数のパイロットが世界の運命を決した一大規模の航空戦が始まる。

 数千機のドイツ空軍に対し、フランスで戦闘機を無駄遣いしたイギリス空軍は、はるかに少ない機数で迎え撃たなければならなかった。
 しかし彼らは、救国の新兵器レーダーを備えた防空網による支援を受けている。
 このレーダーに誘導された英軍のパイロットは、索敵の苦労なく、襲いくる敵機に立ち向かっていけた。

 かくして戦いを有利に進める英空軍だが、パイロットや戦闘機の補充はむずかしく、滑走路や防空施設も破壊され、戦力が底を突くのは目前だった。



 だがヒトラーは突如、人心をチャーチルから引き離すべく、英国首都への無差別爆撃で市民を恐怖に陥れるよう戦略を転換。
 ロンドンが犠牲になっている間に、英空軍には立ち直る猶予がもたらされた。
 連日の激しい空襲に、イギリス国民は粘り強く耐え、チャーチルへの支持は揺るがなかった。

 こうして、制空権を奪えぬままにドイツ空軍は、回復不能の痛手を被ることとなった。

 ついにヒトラーは、イギリスへの空爆が休みなく続けられる裏で、上陸作戦を断念する。
 イギリスとの和平が実現しなかったことは、ドイツが背面に敵を残したままソ連との闘争にのめり込まねばならぬことを意味し、それは回りまわって、全欧州を制覇できたはずの、すなわち世界への支配権を打ち立てられたはずの第三帝国滅亡の引き金となっていくのだ。

 ドーバーの波と英国民の気質が攻める側にとって、かくも多くの取り分をはばむ壁となって立ちはだかったのは歴史上、例がないことだった。


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 地中海



 英国上陸作戦の挫折からソ連と開戦するまでの期間、ヒトラーはあらゆるやり方でイギリスを締めつけ、音を上げさせようとした。

 大西洋では、Uボートによる群狼作戦で輸送船舶が大きく損失を被り、海運に頼るこの島国は枯渇しつつあった。
 だが、チャーチルとイギリス国民は動じない。

 大英帝国の背後、大西洋の彼方には強大な味方が控えているからだ。
 中立的伝統のため欧州の戦争には介入しないものの、あらたに成立させた援助法によりイギリスに戦争道具を供与することで、みずからは手を汚さずにドイツの脅威を防いでもらおうとするアメリカ合衆国である。

 ヒトラーは、太平洋でアメリカと敵対の度合いを強めていた大日本帝国と組み、背後からアメリカを牽制しようとする。
 この企案は40年9月締結の日独伊三国同盟として実現し、枢軸は地球的規模に広がった。

 さらにヒトラーは、イギリスを地中海方面でも追い込むべく、スペインとフランスを対英戦に引きこもうと画する。
 だが、スペインの総統フランコは立ちまわりも上手く、要請を拒む。ジブラルタルの英軍要塞を背後から陥れるためのドイツ軍の領土通行も認めなかった。
 フランスのビシー政府からも、色よい返事は得られない。
 全能の独裁者アドルフ・ヒトラーの対外的な権限とはその程度のものでしかなかったらしい。

 おりしも、地中海を挟んだバルカン半島と北アフリカでは厄介な問題が立て続けに生じていた。

 バルカンの多民族国家ユーゴスラビアでは、ドイツに同調する政府への不満からクーデターが起き、反独政権が誕生。
 さらに、同盟国であるイタリアの支配者ムッソリーニがドイツの向こうを張って、軍をギリシアへ侵攻させたが、劣勢なギリシア軍に追い散らされる醜態をさらしたのだ。
 そのうえイタリアは北アフリカでも、エジプトに大軍で進撃したものの、攻勢に出た英軍の前に大敗を喫して遁走するという恥の上塗りを重ねる。

 悲劇は続いた。
 タラント湾に停泊中のイタリア艦隊が英軍機の爆撃によって大打撃を被ったのだ。
 イタリア海軍の事実上の消滅である。



 ムッソリーニはヒトラーより十年以上先に政権を握ったファシズムの先達だ。
 ローマ帝国の範図を再現した一大領土を築き、祖国に栄光を取り戻すのが念願だった彼は、躍進する同盟国に遅れを取ったのを気にし、いつのまにかドイツのあと追いに励むようになっていた。

 フランスが降伏する間際になって参戦、隣国の領土を掠め取ったムッソリーニだが、今度も、イギリスが力を弱めたとみて、地中海で分け前にあずかろうとしたわけだ。
 しかし無念にも、すべてが裏目に出る結果となった。

 ヒトラーは、ユーゴの政変に激怒し、同盟者の間抜けぶりには舌打ちしつつ、各地に軍を動かし対処していく。

 イタリア軍を追撃するギリシア軍の背後から襲いかかったドイツ軍は、応援に送りこまれた英軍ともども、これを蹴散らす。
 一方、ドイツに反旗を翻した報復として、ユーゴスラビアの首都への爆撃を命令、機甲師団に踏みにじらせ、こともなく降したのち、再び親独政権を擁立。

 そして、北アフリカに派遣されたロンメルは、小兵をしたたかな戦術で使いこなしイギリス軍を撃破、イタリアの尻拭いを果たす。
 だが、ムッソリーニがヒトラーに世話を焼かせるのはこれが最後ではなかった。
 連戦連敗することが任務であるかのように負け続けだったイタリア軍は最後まで、ドイツの荷やっかいであり続けるのだ。

 ところで、北アフリカはただ砂漠が広がっているわけではなく、大英帝国の心臓部であるスエズ運河と直結していた。
 砂漠づたいに東へと進撃していけば、戦局の趨勢をにぎる拠点に攻勢をかけられる。

 ところが、数百万もの強兵を擁するドイツ国防軍のうち、ロンメルに任せられたのは驚くほど少ない兵数でしかなかった。

 ヒトラーとしては戦力の大部分を来たるべきソヴィエト連邦との大闘争に投入しなければならない。
 重要度において副次的なものでしかない北アフリカで戦うロンメルにはおこぼれのような兵力をあてがうだけで足りる。ロンメルが有能であり、小兵で大軍を打ち破る名将だとすればなおのこと。だからこそ彼をアフリカに派遣したのである。
 そうして一兵でも多くを節約し、決定的な戦場であるソ連戦線に振り向けるのが筋というもの。

 ヒトラーは、北アフリカへの戦略的評価についても、ロンメルのような軍人の扱いについても誤りを犯していた。

 ロンメルにまともな戦力をあたえれば、つまり、やがてソ連戦線で日常的に消耗させることになる兵力のごく一部をつまんでアフリカ軍団を増強してやれば、スエズを通り越して、ペルシア湾にまで進撃できたといわれている。
 そうなれば、大英帝国は近東から撤退し、ソ連との戦いもはるかに有利に進められるようになっていただろう。

 実は戦局の趨勢を握っていた北アフリカを軽んじる総統の吝嗇家のような采配のもと、この戦争で最高の名将ともいうべき忠義に厚いロンメルは、微々たる増援と細々たる補給を生かし、つねに手勢を上回る敵軍を相手に終始、苦しい戦争を強いられていく。


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 ソ連



 ヨシフ・スターリンこそを二十世紀最悪の殺人鬼だとする人は多い。
 たしかに、ヒトラーに殺された人々よりスターリンのため奪われた命のほうが数を上回るようである。

 革命の父レーニンに代わり、労働者のユートピアとなるべき新国家を受け継いだ彼は、歴代のいかなる皇帝よりも人民に災いをもたらす圧政者として、ソヴィエト共産党書記長という名の玉座に君臨してきた。

 スターリン書記長は、自己の地位をだれにも譲らぬという執着の凄まじさをソ連の範図にまで拡大させた政治姿勢のもとに、おのれの縄張りとしての祖国に、西側敵対国に対抗させるための近代化をもたらした。

 彼の軍隊、いや国民の軍隊であるはずのソヴィエト赤軍は、世界最大の国土を守るのにふさわしく巨大な規模を誇っていたが、忠誠度の疑わしい将校や下士官を大量に処刑するという粛清によって機動戦が遂行できぬまでに骨抜きにされていた(そのことは小国フィンランドを屈服させるのに手こずることで、世界の目にさらされた)。

 あまりにも大勢から憎まれる人物だったにもかかわらず、政権の地盤はなぜか強固であり、最終的には、八千万人の国民から愛されたヒトラーでさえ打ち砕くことがならなかった。

 このスターリンとヒトラー。おのおのの民に前例のない苦渋を味あわせた二人の独裁者が、同時期に、ヨーロッパという世界の中心で隣り合わせになったことが第二次大戦の被災をかくも大規模なものとした、なによりの理由である。
 実に、戦没者のほとんどが、ドイツ軍とソ連軍の交戦によって生じているのだ。

 巨大な災厄以外のなにも残さなかったナチズムとボルシェヴィズムの戦いは、避けられないものだったのだろうか?
 不可侵条約まで結びながら、両国が協調して発展していくことは考えられなかったのだろうか?

 当時の歴史は、博愛のなかったところにそれがあったかのように思いこむのは間違いだと教えてくれる。
 そうした今日的な判断がくだせるほどドイツやロシアの民衆が史的環境への隷属から免れていれば、ヒトラーのような指導者に票を投じたり、スターリンの権力を強めるため命を捧げるはずがなかったのだから。

 かくして動機などと関わりなく、両国は、未曾有の大惨事ともいうべき独ソ戦に総力を挙げてのめり込む定めになっていた。
 ルーマニアの油田をめぐるいざこざがあったことなど、今日だれが覚えているだろうか。

 ヨーロッパの歴史は結局、開戦前に西欧の融和主義者たちが目論んだとおりに動いたことになる。
 違いといえば、この大闘争に英仏まで巻き込まれた結果、ヨーロッパ自体が没落してしまい、覇を制したのは新世界のアメリカ合衆国だったことだろうか。

 バルバロッサ作戦が開始された。
 数百万のドイツ軍将兵は黒海からバルト海までの広がりをもつソ連国境から怒涛のごとく進撃していく。
 この史上空前の規模をもった攻勢にくらべれば、前年にヨーロッパの秩序を覆したフランス進撃でさえ前座としか思えなかった。

 不意討ちを受けた何百万もの赤軍兵士は、それぞれのあり様で恐慌に陥った。スターリンは各方面から事前の警告を受け取りながら、前線部隊になにも伝えていなかったのだ。

 ソ連軍は兵数だけは最大級の烏合の衆としてドイツの電撃戦の前にさらされた観がある。

 粛清は赤軍部隊を救いがたく弱体化させており、近代装備の敵軍から奇襲をくらい、うろたえる兵士たちにとって、指示をあおぐ将校は無能、頼るべき下士官は素人揃いとなれば、我を忘れて遁走するほかに生き延びる術はなかった。
 かくも大規模な軍勢がかくも広大な守備範囲で、かくも大々的な壊乱ぶりをさらしたのは戦史に例がない。



 ドイツ軍は三つの大軍団に分かれ、ソヴィエトの領土を侵食していった。

 レニングラードを攻略する北方軍団。
 モスクワを陥れるべく猛速度で突き進む中央軍団。
 そして、「わが闘争」での約束の地ウクライナを奪い取る南方軍団。

 ソ連側は南方をドイツの主攻目標と予測し、守りを固めていたため、南方軍団は苦戦させられることになった。
 スターリンの牙城よりウクライナの資源を手に入れるほうを優先させたヒトラーは、中央軍団の進撃に歯止めをかけ、南方軍団と協調するよう命令を下す。

 南下した中央軍団は南方軍団と合流、キエフを守るソ連の大軍を包囲する。
 キエフ守備軍は、モスクワ防備のため時間を稼ぎ出したのち、壊滅した。

 いよいよ、ソ連の首都を陥れる「台風作戦」が発動される。
 ドイツ軍は、恐るべき速度で防御陣を打ち破り、モスクワへと迫っていく。
 ソヴィエト政府の中枢ははるか東のカザンへ疎開し、クレムリンにナチの旗がひるがえるのは時間の問題と思われた。

 そこへ寒波が到来し、ドイツの進撃を妨げようとする。
 しかし第三帝国の将兵は闘志を保ち、風雪の中を防寒着も冬の装備もないまま、モスクワの城門までたどり着いた。
 そのとき、予備軍を注ぎこんだソ連軍の大反攻が開始され、攻撃側はついに押し戻されてしまう。無敵だったドイツ国防軍の最初の敗退である。

 モスクワを攻め落としてもさらに戦いが続いたのは間違いないが、次の決戦を有利に進めるにはモスクワを手に入れることが不可欠だった。そしてドイツ軍に、モスクワを攻める機会は二度ともたらされなかったのだ。

 しかも、死に物狂いでソ連と四つに組み合っていたドイツは、さらに強大な敵を背後で迎え撃たねばならなくなる。

 アメリカが参戦してきたのだ。


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 日本



 ヨーロッパで戦火が燃え広がる間、中国との戦争に深入りしすぎたわれわれの日本ではあらゆるものが欠乏しつつあった。
 食糧、鉄鉱石、生ゴム、錫、ボーキサイト、ニッケル、石油……そして、国民の良識。

 そのうち最後のもの以外は、軍を南方に送りこんで分捕ればいいのだが、もっとも大切な最後のものが欠けてしまった人々は、それを悪いと思うことができなかった。
 「貧すれば鈍す」であり、人々はこうした盗賊からの盗賊行為を、西欧植民地主義からアジアを解放する正義の行動だと思い込もうとしたのだ。

 むろん、日本人以外の国民までがそう思い込んでくれるはずがない。
 日本の行動が侵略以外のなにものにも見えなかったアメリカ人は、日本人の正義に対し、国際的な良識をもって立ち向かった。

 なに。アメリカとて、良識がどうのと言い出せる義理ではない。
 一目したところ自由で開放的なアメリカ合衆国というホットドッグには、KKK的価値観という集団エゴの巨塊がはさまれている。
 本当に美味しくアメリカを味わえるのは、プロテスタント派の白人グループだけだった。

 それでもここは、世界でもっとも進んだ可能性の国であり、H.G.ウエルズにいわせれば、「全世界的な共同体とヨーロッパ的な国家との中間に位置する存在」でもあり、要するにただの国とはわけが違う、人類全体の未来を先取りしながら発展する存在だった。
 アメリカ合衆国をひとつの国、規模の巨大さゆえに無敵を誇る覇権主義国家としか捉えられない者は時流そのものから審判を食らうことになろう。

 さて。
 そのアメリカはかねてから、中国での軍事活動をめぐり日本を強く非難していた。
 そればかりでなく、イギリス、中国、オランダと連携する経済封鎖網(日本側からABCD包囲陣と名付けられた)を主導して、日本の生産と貿易を圧迫し、経済を破綻に追いこもうとしたのだ。
 そして法の執行者であるかのように、ハル・ノートと呼ばれる最後的な脅迫状を送ってくる。

 アメリカ合衆国が突きつけた要求は、日本人を硬直させるのに充分なものだった。
 日本はただちに帝国であることをやめなければ、石油の供給を断ち切られたまま、国家経営にも行き詰まってしまう。
 ついに日本は戦争を決意し、アメリカばかりかイギリスとオランダに対しても立ち向かうことになった。

 ここで、是が非でも売られた喧嘩を買わねばならなかったのかという疑念が浮かぶ。

 そもそもハル・ノートは突如として降りかかった災厄ではない。
 その時までの長期にわたるわが国の対アジア政策が招いたものであり、日本は外国人にもっと親切にしてやれば、つまりアメリカとうまく協調し、中国をめぐる市場競争でたがいに利益を得られるようにしていれば、もたらされることなく済んだかもしれないからだ。

 それよりもなによりも、日本には勝ち目がなかった。
 アメリカ合衆国は、人口、経済、資源、技術力など、あらゆる面で日本を凌駕する国であり、立ち向かうのは国を滅ぼすのも同然なのだ。

 もっとも、それは今だから言えること。
 開戦時、アメリカの産業が軍需生産に転換された場合の恐ろしさに思いをはせた帝国軍人はあまりいなかったし、アメリカなどは日露戦争で打ち負かしたロシアのようなもの、ちょっと叩けばへこたれる巨体なだけの弱虫だという侮蔑的な思いこみがほとんどの日本人にあった。
 同盟国ドイツは欧州を席捲しつつあり、アメリカ人ときたら、イギリスをそのドイツと戦わせて傍観するだけの臆病者でしかない。

 実はアメリカが参戦したために枢軸側の三帝国は滅び去ることになるのだが、当時の日本人は、ハル・ノートなど脅しにすぎず、いざ戦争の瀬戸際に追いこまれれば奴らは開戦をためらうと舐めていたところがある。
 時代は東亜に新秩序を打ち立てるのに有利な方向へと動いているように見えた。日本もここで討って出ないとバスに乗り遅れてしまう。

追記

ハル・ノートは、国務長官の立場からなされた提案にすぎず、思い込まれているほど強硬な申し出ではなかった。
だが、その内容は、ワシントンの日本大使館から電文で東京に送られた後、改竄され、欠落や追記、意図的な誤訳によって原文とは違うかたちになってしまう。(「即時撤兵」の要求も、原文にはなく日本側が追加した部分だという)
しかも、開戦の閣議決定は11月中になされており、ハル・ノートが手交される前日には空母機動部隊がハワイに向けて進発していたのである。
「ハル・ノートが日本を開戦に追い込んだ」という通説はまったく成り立たない。


「ハル・ノート」の原文
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/hullnote.html




 かくして、開戦と共に痛打をあたえ、迅速に東アジア水域を確保したのち和平交渉を迫るという、日露戦争以上にきわどい大戦略が立案され、遂行されることとなった。

 あらゆる攻撃に先駆けておこなう必要のある空母機動部隊によるハワイ諸島への前例のない遠征も企図された。戦いは日本からの先制攻撃、すなわち奇襲で始まらなければならない。
 国際道義には背くだろうが、出撃と同時刻に宣戦の通達をおこなうことで体裁はつくろえる。いずれにせよ、夜討ち・朝駆けは日本の伝統的兵法なのである。

追記

実際は、英領マレー半島への上陸作戦のほうが早かった。イギリスに対しては、攻撃直前の宣戦布告すらしない手筈だった。

 このように太平洋戦争は、選挙権があるはずの一般市民とは関わらぬところで準備され、始められたわけだが、事後に日本が米英蘭と開戦したことを知らされても政府に抗議する日本人はいなかった。

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 合衆国



 ハワイに遠征した空母から出撃した海軍航空隊は、結果として宣戦布告よりも先に真珠湾を攻撃、停泊中の太平洋艦隊の戦艦群を全滅させた。
 日本の攻撃は、東アジア全域で同時的におこなわれ、グァム島やウェーク島が空襲されたほか、マニラの米軍基地でも爆撃により空軍力が大損害を被っていた。

 さらに日本軍は、シンガポールの沖合いで英国海軍の誇る戦艦二隻を沈め、日本の攻撃に怒ったアメリカは参戦するだろうと悦んでいたチャーチルを嘆かせる。
 そして、陸戦隊がフィリピンとマレーに上陸していった。
 広範囲に及ぶ作戦のことごとくが大戦果となって達成されたような快調ぶりだった。

 さて。アメリカの反応だ。



 アメリカ国民は日本の動きを注視していたわけではない。
 彼らの目はあくまで国内とヨーロッパに向けられており、太平洋側は言ってみれば裏庭でしかなく、変わった事件がときどき話題となる地域にすぎない。

 あらたに始められた太平洋戦争はその裏庭に盗賊が押し入った状況にほかならず、大多数の国民には、ドイツ軍の西方進撃でフランス人が味わったような、生活の場が脅かされるという切迫感までは抱きようがないはずだった。

 ところが、アメリカ中がヒステリックな恐慌に呑みこまれたのだ。
 アメリカ国民はこの卑怯なやり方、寝ている門衛に忍び寄り、枕を蹴り飛ばして起きたところを突き殺したのに、寝込みを襲ったのではないと胸を張るようなまやかしに怒りを爆発させる。
 彼らが激昂する底には日本人への侮りと恐怖が混在していた。

 原住民と戦いつつ荒れ地を耕した開拓者の子孫であるアメリカ人には、辺境の蛮族に対する伝統的な警戒心があった。
 すでに野蛮人は国土からなりをひそめたが、新たなフロンティアである太平洋はアメリカ人にとってなお、インディアンが暴れまわる開拓時代の西部と変わらぬ未開の領域であった。

 日本人は彼らの目からは、アパッチ族のような敵性部族にほかならない。
 いまや、その黄色いアパッチが、白人と同じに軍艦や爆撃機をあつかい、ハワイでアメリカ本土の盾となっていた米海軍に手痛い打撃をこうむらせたのだ。
 そして、アメリカに戦いを宣してきた。

 アメリカ人は、十九世紀の東部人がはるかアリゾナやワイオミングで起きた大殺戮の報に聞き入る感覚で真珠湾攻撃の報道に衝撃を受けた。
 近代兵器による攻撃がもたらした災禍を厳粛に受けとめながらも、蛮族が明日にも西海岸から上陸してきて国土が踏みにじられるかのような原初的な動揺を彼らは味わった。

 ここにおよび、我が家がヨーロッパの国のように安全で文化的な生活圏(そのヨーロッパは日本の同盟国ドイツに蹂躙されていた!)にあると思いこんでいたアメリカ人、寝起きする場所の地勢的な脆弱さを一夜にして認識した彼らは、心の底から恐怖に目覚めた。
 そして、一つに団結した。

 アメリカは真珠湾以前の、周囲から安全に孤立していた国ではなくなった。
 家の外に満ちた危険をすべて排除しなければ安泰にくつろげなくなってしまったのだ。
 アメリカ人のこの真珠湾コンプレックスは、日本との戦争が片付いてからも引き継がれ、朝鮮戦争やヴェトナム戦争、さらに湾岸戦争、そして現代のアフガン戦争やイラク戦争を遂行する主導力となっていく。

 かくして真珠湾攻撃は、第二次大戦に転機をもたらしたばかりか、二十世紀の転機ともなったわけである。

 さて。
 実は、アメリカは政府レベルでは、日本との闘いの準備はとっくに出来上がっていた。
 そればかりか、ヨーロッパの戦争に介入する予定表まで作成済みだったのだ。

 アメリカは突如として第二次大戦に引きずりこまれたわけではなかった。
 開戦当初から連合国寄りの姿勢を明確にしていた彼らは、中立主義に阻まれつつも、あらたに成立させた援助法により、まずイギリス、ついでソ連にも、ドイツと戦うための兵器や物資を送りつけ、大西洋を隔てた安全圏に居ながらにして出兵なき戦争を遂行していた。

 この国の指導者フランクリン・ルーズベルトは、ファシズム諸国に対する明瞭な外交姿勢の持ち主であり、孤立主義にしがみついて離れない自国民をあやすかのように、中立法の枠内で祖国を枢軸側に対抗させるあらゆる策を講じたのだ。

 日米開戦へと至る交渉についても、ヒトラーの同盟者である短気で自惚れの強い日本人を過大な要求で圧迫し、先に手を出させ、かくしてアメリカが欧州の戦争に介入するきっかけとするつもりだったとの見方は、かなり信憑性が高い。

 アメリカはまた、傍受した敵方の暗号電文を、解読器によって洗うことさえした。
 日本の暗号がどの程度まで読み取られていたかはわからない。真珠湾以前に日本の開戦意図がルーズベルトのもとに伝えられたのは確実とされるが、しかしそのことをもって、「真珠湾攻撃はアメリカ大統領の陰謀だった」という与太話を裏付ける根拠にまではならない。

 ルーズベルトは、地理情勢から推して、日本がフィリピンを攻撃すると予見したようである。
 車椅子に乗った老体の彼では日本海軍の機動性といったものに思い至らず、まさかハワイにまで遠征をおこなうとは考えられなかったのだろう。そして、堅固な守備陣が大きな損害をこうむることなく敵の攻撃を退けることに期待したのかもしれない。
 結果は、日本海軍の冒険心と攻撃力の前に知られる通りの歴史となってあらわれてしまったわけだが。

 ところで、この時点では、日本と米英蘭との間で火蓋が切られたにすぎない。
 日本は外交的にも動きだし、枢軸側の同盟国をアメリカとの戦争に引き入れようと策する。

 モスクワ戦線を憂慮するヒトラーは、日本がソ連を東側から叩いてくれるのを望んだが、スターリンにアメリカとの講和を取り持ってほしかった日本は対ソ開戦に応じず、それどころか逆に、ドイツのほうに三国同盟にもとづきアメリカと交戦するよう迫ったのだ。
 そう。日本は、それをした。

 日本にせき立てられ動いたのではないだろう、背後に打撃を受けたアメリカに正面からも挑戦状を突きつけ、参戦に気乗りしないはずの米国民をへこませる好機と見たのかもしれない。
 米国製の武器で応戦してくる英ソに手を焼くヒトラーはついに、アメリカ国家そのものに宣戦を布告する。そして、ムッソリーニもあとに続いた。

 いまや欧州の強国同士の軋轢は真の世界大戦へと発展し、アメリカ合衆国は連合諸国の中核として、日本、ドイツ、イタリアの三帝国に立ち向かうこととなった。


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 大東亜



 戦争に分け入ったばかりのアメリカの世界戦略は、太平洋側で守勢を保ち、持てる戦力の大半を正面のヨーロッパに注ぎ込んで、「第一の敵ドイツ」の進撃を阻止することだった。

 それに日本軍の精鋭を投じての同時的奇襲の成果が上乗せされたため、旭日の旗は驚くべき速度で、上海、香港、マニラ、シンガポール、そしてインドネシアの諸島を席捲していく。
 かくして数ヵ月のうちに、開戦時に意図した絶対国防圏の勢力範囲を手中に収めるという大目標が達成なったのである。



 それにしてもなぜ、これほど広大な水域を占領する必要があったのだろうか?
 戦略的見地からすれば、日本にはただひとつの資源が足りないだけなのだ。
 軍艦を動かすための石油である。

 開戦前、この石油の供給をアメリカから断たれた日本には、インドネシアの油田の確保が急務となった。
 インドネシアを支配するオランダは弱国であり、攻め落とすのは雑作がない。
 だが、そこから資源を安全に日本本土へ運ぶには、敵対国による海上攻撃力の無力化、すなわち制海権を握ることが不可欠となる。
 堅固なシンガポール要塞を攻め落とし、フィリピンに集結した多数の米軍機を叩き潰さなければならない。さらに、強大なハワイの太平洋艦隊をも葬り去る必要があった。

 地図を一望するだけで、楽々と挙げられそうな戦果ではないことがわかるだろう。
 しかし逆に、そのすべてに成功すれば、広大な南洋諸島全域を日本のものにできるのだ。
 それは同時に、日本にとって永年の夢だった「大東亜共栄圏」の範図を実現させる快挙にほかならない。

 日本は苦境を脱するためというより、莫大な戦利品に目をくらまされ開戦を選び取った節がある。アメリカによる脅迫を、念願だった大東亜共栄圏をあらしめる口実とし、大日本帝国を本物の大帝国となす千載一遇の好機だと思ったのだ。

 この時代、白人の優等性は、文化ではなく領土というカタチで世界地図の上に現われ、東洋の大部分が西洋諸国の支配のもとに置かれていた。

 インドやマレー、香港が大英帝国の統治下にあったほか、マカオがポルトガル、インドシナがフランス、インドネシアがオランダ、そしてフィリピンがアメリカ合衆国によって植民化されており、大日本帝国に併合された朝鮮、台湾、中国東北以外では、タイ王国だけが巧緻な外交手腕により独立を保てたのだった。

 こうした中で、同じアジアの国々を領有する日本はたしかに特異な存在である。

 明治維新以来、西洋の技術体系を我流に使いこなすことでロシアの南下をはばむほどの強国にのし上がった日本は、ヨーロッパと英語圏以外では唯一、高等教育が行き届き、強大な軍事力を備える主権国家だった。

 日本は白人から同等に扱ってほしかった。
 白人と同じにアジア人を虐げる立場であった日本は、ベルサイユ講和会議の席で、国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を盛りこむよう訴えるが、欧米の帝国主義者から底意を見すかされたらしく、主張自体の正当性にもかかわらず採決には至らなかった。

 日本は、もっと領土がほしかった。
 日本と同じに小さな島国にすぎないイギリスが世界中の陸地を支配しているではないか。
 アジアはアジア人の手に帰すべきものである。
 西欧の国が東亜に有する領土はすべて、東亜の国である日本が継承しなければならない。

 このすこぶる説得性に乏しい理屈に地勢上の裏付けをあたえるため、ひとつの国が総力をあげて世界の体制に立ち向かい、亡国にいたった経緯が大東亜戦争だといわれる。

 「日本人は有色人種の王者」という無邪気な思いこみはどの日本人にもあり、西欧の支配のもとから強奪した全アジアをまとめ上げ、自国が盟主となる大帝国を築き上げることは、今日いかに暴挙に思われようとも、われわれの父祖にとっては実に合理的な未来図だったのだ。

 結局のところ、共産主義から西欧を守るためドイツ国防軍はソ連に攻め入ったというゲッペルスの宣伝が真実なら、大東亜戦争を白人の支配からアジアを解放する聖戦とする帝国軍人の主張もまた真実と言わねばならない。
 インドネシアの現地人は上陸した日本兵を黄色い肌の解放者として迎えたと伝えられるが、それはまた、ウクライナの農民がナチの軍隊にパンと塩を献上したという話とも似通っている。

 しかし、皇軍の進駐は本当に、アジアに貢献するものだったのだろうか?
 アジアとは、「反西洋・反白人」で一括りにできるほど狭苦しい寄り合いではなく、白人の支配ばかりか日本の支配も必要とせず、そしてアジア自体でひとつにまとまることも望まずにいたはずだ。

 アメリカから独立を約束されたフィリピンでは、反キリストの日本軍に踏み込んでこられるのは迷惑そのもの。マレーやインドネシアの回教徒にとっても、人間ヒロヒトへの崇拝を強いられるのは遺憾だったに違いない。
 さらに、日本軍の侵攻で米の供給を阻まれたインドシナや遠きベンガルでは餓死者が多発した。

 なによりも日本には、広範な領分で雑多な異民族を統合し、彼らから愛される国民的資質に欠けていた。
 日露戦争以来、アジア独立の支援基地としての日本に憧れ、日本に留学したアジアの俊才はことごとく、日本での差別偏見に失望し、反日主義者となって帰っていったものだ。

 鎖国の状態から突如のように白人優位の国際環境の中に投じられた日本人は、白人になることも有色人でいることもできない孤独な集団として、世界の中での立場を求め続けてきた(このジレンマは今なお、少女漫画の世界を色濃く染めているものだ)。
 自我というものが極度に抑圧された当時の人々は、国家や天皇といった崇高な民族的象徴が冒涜されたときだけ、鬱憤を集団エゴのかたちにして吐き出すことが許された。

 必然的に皇軍の進撃は、小津安二郎の映画とは似つかぬものとして、通った道々に償いがたい傷跡を残す結果となったが、東亜に解放が必要だという主張のほうは嘘ではなく、日本が「解放戦争」に突入するのは日本人にとっても必要なことだったかもしれない。

 当時もっとも解放されるべきアジア人こそは日本人自身であり、大日本帝国の滅びる以外にその臣民がみずからを虐げる体制の支配から救われる術はなかったとすればだが。


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 山本



 では。
 戦況のおさらいを。

 日本は、精鋭を投入して各地で奇襲を仕掛け、相手側は、より重視すべき欧州の戦場に物資をまわすため西部太平洋では守勢にまわり、持久戦に持ち込むかまえを示した。
 こうして数か月のうちに、日本の陸海軍は、オランダ領の島々を占拠し、フィリピンとマレーから米英軍を一掃、南方の資源と本国を結びつけるという初期の目的が達成された。

 太平洋戦争の本番はこれからあとで、カタチだけは成った「大東亜共栄圏」が直面させられたのは、やがて来たる大規模な反撃に備えての、薄氷の上を渡るような軍略が要求される、ナポレオン級の傑物でなければ統監が不可能なほど高度の持久体制を築くことだった。

 鍵となるものは海運である。
 八紘一宇の理想を実現した大日本帝国にとってなによりも尊ぶべきもの。
 これが保全されなければ、マニラやシンガポールへの遠征の成功も意味がなく、日本列島は依然として、鉱物や石油から切り離されたままもおなじことなのだ。

 そして、日本にとって頼みの綱である海運の維持を司る守護神が、主力空母六隻、戦艦十一隻からなる当時、世界最強の海上戦力にのし上がった連合艦隊であり、その最高指揮官こそ山本五十六大将だった。


 開戦前、山本は語った。
 半年や一年は存分に暴れてみせるが、そのあとは保証できない。

 いささか無責任にも聞こえるが、彼の言葉は現実に裏付けられたもので、石油の備蓄量と同時に、敵側の反撃態勢が十分に整うまでの期間を示していたのだ。

 いまや蘭印をおとしいれた日本に石油を案じる理由はなくなったが、海のかなたのアメリカ本土では恐るべき規模の大艦隊が建造されつつある。


 タイム・リミットは、敵将ニミッツのもとに、空母十数隻を主力とする巨大な増援が届けられるまでの一年あまり。
 それまでのうちに日本は、有利な条件で英米と講和を結ぶか、国防圏水域を守りぬく強固な防御体制を築いておかねばならない。

 これが、山本五十六大将にのしかかっていた戦略的課題だったのだ。
 この時の状況は、一国の命運が一軍人の裁量に委ねられた、戦史でも稀な実例とされる。

 ところで、日本は国防の境界をどのあたりに設けるべきなのだろう?
 トラック諸島か? だが、そこを守るためにはラバウルを抑えておかねばならない。
 さらに、ラバウルを維持したければ、ニューギニアやソロモン諸島を手に入れる必要がある。
 そして、ニューギニアやソロモンを攻められないためには……こうして防備の前哨は拡がっていき、ついにはオーストラリア北岸からの脅威に応じるため米豪間の海上補給を遮断すべく攻勢に出るという、ほとんど実現不可能な作戦にまで行き着いてしまうことになる。

 それはまったく、国力を無益に費やした自滅的守備陣と言うほかなく、逆説になるが、日本が太平洋の守りにのみこだわるかぎり、太平洋を守り抜くのは不可能だった。

 日本を救うためひとつだけ見込みがあったのは、遠方の同盟国ドイツとの地球大規模の合同作戦である。

 今にして思えば最良の選択は、前年の暮れにアメリカと開戦せず、モスクワ攻防たけなわの頃にシベリアに侵攻し、ウラル以東の資源をスターリンから掠め取ることだったのだが、これは、南進して米英蘭の植民地を強奪するというハルノートへの対応策によってご破算となってしまった。
 どのみちアメリカとの仲介をソ連に依頼したければ、スターリンの領土に攻め込むわけにいくまい。

 次の手は?
 当時、連合国側がもっとも恐れていたのは、インド洋・中東方面でドイツと日本に合流され、大英帝国の急所で東西の枢軸諸国を連結する強固なパイプが築かれてしまうことだった。

 実際、インド洋沿いに広がった大英帝国の所領こそ「連合国側のやわらかい下腹部」にほかならない。
 ここを最盛時の日本軍に全力で突かれ、かくして英軍がペルシャ湾やスエズ、インド亜大陸、蒋介石を支援するビルマルートから駆逐されれば、大英帝国の屋台骨は崩れ落ち、以降の戦闘はアメリカにとっても非常にやりにくくなる。
 欧州要塞は米軍の侵攻をやすやすとは許さぬほど強化されるだろうし、これほど不利な世界情勢では、スターリンもヒトラーに単独講和を申し出るかもしれない。

 この日本にとっても世界にとっても切迫したタイミングにあって、山本提督が最終的に選択した作戦は、全体戦略からいえばまるで見当違いの方向、中部太平洋で米機動部隊を殲滅し、それで戦意を喪失した米国民と和議を結び、枢軸側の戦列から自分の国だけ離脱させるという、名誉も道義もないような虫のいい目論見を実現することだった。
 要するに、襲いかかる熊を相手に一撃だけ食らわせ、勝った振りだけ見せるや、あとは布団をかぶって隠れたつもりでいようというわけだ。

 時代は第一次大戦の頃とは違っていた。
 太平洋の戦略的重要性は、日本自身の行動で世界に教えてしまった後だった。
 ルーズベルトやチャーチルの目からは、日本人は、ヒトラーやファシスト党と変わりのない、最後まで戦って倒すべき兇悪きわまる害虫以外のなにものとも思えない。

 そうした世界の中にありながら、日本だけは目前の敵を退ければ安泰でいられると本気で信じられたとすれば不分明もはなはだしいものがあろう。
 その強引な対外政策ゆえに世界の半分を敵にまわすことになった日本帝国は、同じファシズム国家の中から同盟者を見つけ出したが、日本にはそのドイツとさえ協調する意図が皆無だったのだ。

 空母四隻を失ったミッドウェー海戦とそれに続くソロモン諸島での悲惨な消耗戦のことを詳述しても仕方がない。
 仮にミッドウェーで日本海軍が快勝したとしても、太平洋戦争は結局、連合艦隊が全滅するまで続けられただろう。

 重要なのは、山本が、軍艦をいくら沈められても講和に応じる気のない相手に対し、敵にもっとも利する土俵で勝負を挑み続ける司令官だったことである。
 実際、これほど祖国を敗亡させるための作戦計画を次々と打ち出した軍司令官は戦史にもめずらしい(カーディガンやグルーシー、牛島や栗田でさえ、一戦だけの落ち度である)。

 彼は常に、自国の守備水域を大きく越え、敵のほうが有利に立ち回れるアメリカ側の水域に向け、こちらから艦隊を突撃させるという戦い方を繰り返し、自分の海軍に壊滅的なまでの損耗をこうむらせる結果をもたらしたあげく、死んだ。

 山本の戦死は一将官の損失にすぎないものだが、再起不能なほど弱体となった空母機動部隊は、わが国の戦時事情では代替のきかないものだった。
 やがて未曾有の大艦隊が反攻を挑まんとしており、日本は残存戦力で、ついに立ち上がった巨人を迎え撃たねばならないだろう。

 日本は、戦争の目的だった大東亜共栄圏を守るための道具そのものを早々と失ってしまったのだ。

 東条が本気で国民を思っていたなら、山本を国葬した時点で講和を考えるべきだったろう。
 大東亜戦争における以後の戦闘――マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、大陸打通作戦、インパール作戦、沖縄攻防戦など――はすべて、「無駄な抵抗」を記録したものにほかならず、「勝敗の分かれ目」という次元で論ずべき重要度はもたない。
 東条を退陣に追いやることで相手側の決定的な戦果となった翌年のサイパン島失陥は、このときから予告されていたと言っていい。


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 挟撃



 ヨーロッパでの日本の同盟者も、苦境に追いこまれようとしていた。

 ヒトラー最大の失策が、アメリカ合衆国を戦争に引きこんだことにあるのは今日では自明の理となっている。
 アメリカ人の強みは、莫大な資源を蔵した大陸並みの国土を足場に、最大規模の軍事力に転換可能な最大規模の産業設備と資金を最大限に活用し、同盟国とも緊密に協調する(つまり、人的損耗を要しそうな仕事は他国にまかせる)ことにより、最小の犠牲で最大の戦果をもたらそうとする、合理的で現実的な戦略思想にあった。

 二つの大洋に隔てられた地勢的利点により、日本からもドイツからも北米大陸に大規模な攻撃をかけることは至難だったのに、アメリカは絶大な海上輸送力によって、世界のどこにでも兵員や物資を陸揚げし、攻撃を仕掛けることができた。

 だがアメリカ合衆国は大戦に参入したばかりであり、やがてはホットケーキのように焼きあがった数百万のGIがアメリカの港から進発し、ベルリンや東京へと攻め寄せていくことになるにしても、フライパンが温まるまでに時が必要だった。

 実際、日本軍が急速度で大東亜共栄圏を確保しつつあった開戦当初、枢軸側が不利な形勢に陥ったようには見えずにいる。
 ただ、不敗を誇るドイツ国防軍が冬装備の不足によりモスクワで不覚を取ったにすぎない。

 連合軍側にとって勝利の鍵は、来援を待ち受けるソ連と英国が、ヒトラーと日本が暴れまわるだけの日数を持ちこたえられるかにかかっていたのだ。

 逆に言えばドイツが勝利を得るには、北米産の大兵力が大西洋の彼方から欧州に到来する以前に、アメリカの同盟国イギリスとソ連に対し、各個に強烈な打撃をくらわせ、どちらも脱落させたのち、総力を挙げた一正面体制でGIの大群を迎え撃つ以外になかったわけである。

 モスクワをあきらめたヒトラーは、今度はコーカサス方面の油田と産業施設をソ連から奪い取る大作戦により、スターリンに致命打をあたえようと策する。
 これにもしも、北アフリカを東に進撃し、大英帝国の要衛スエズを陥れたロンメルの戦果が上乗せされるならば、連合軍側を分断する防御線が構築されることになろう。
 気宇壮大ながら、実現なった場合、戦局をうごかす決定打となるかもしれない。

 連合国側にとって、まさに最大の危機的事態が訪れつつあった。

 兵力の不足にたたられながら健闘を続けていた北アフリカのロンメルは、ようやく増援を得るや本領を発揮し、英軍の要衛トブルクを攻め落とす。
 さらに、敗走する英軍を追ってエジプトに侵攻しようとする(アレキサンドリアを落とせば、大目標のスエズ運河は目前だった)が、イタリア軍が足手まといとなり前進が遅れる間、英軍にアレキサンドリア前面のエル・アラメインに強固な防御線を築かれてしまうこととなり、補給線が伸びたドイツ軍の弱体な戦力ではいかにロンメルの指揮でも突破はならなかった。

 ドイツの進撃は停止し、両軍は膠着した状態で向き合うこととなる。
 やがて健康を害したロンメルが本国で療養する間、戦力をたくわえた英軍司令官モントゴメリーは反撃を開始、劣勢な独伊軍は戦線を突破されてしまう。
 急遽アフリカへ舞い戻ったロンメルには、敗兵を収拾しつつ、軍をチュニジアまで後退させることができたのみである。
 大英帝国の心臓部スエズの攻略は無期限で先送りとなり、かくして鋏作戦の一翼は崩れ去った。



 ロンメルは、スエズ運河を占領したのちは、中東からコーカサスへ進撃し、「青作戦」を遂行する南方軍を背後から支援するという壮大な戦略を思い描いていた。
 他の将軍が口にした場合、誇大妄想以外のものに聞こえないとしても、ロンメルになら可能だったろう。

 しかし、枢軸側が余命を保つための千載一遇の好機は、補給の欠乏という兵站部の不手際によって夢と化した。
 地中海はマルタ島に陣取った英軍の制空下にあり、欧州からの補給物資がアフリカに届かずに沈められてしまったからだ。

 ヒトラーにとって、北アフリカはやはり戦局全体から見れば副次的な戦場にすぎず、主目標のコーカサスを手中に収めてスターリンを揺さぶることこそ絶対優先であり、余力は回せなかったのだ。
 ところがコーカサス遠征軍は、総統の戦略的常識を逸脱した無意味なこだわりによって、抜き差しならない状況に陥っていく。

 二手に分かれたドイツの大軍のうち、油田を押さえるためバクーへと向かったA軍団は、山岳地帯でソ連軍の頑強な抵抗に阻まれるうちに、補給が続かなくなり、身動きが取れなくなってしまった。
 この重大な局面での手当てを放ったままにして、ヒトラーは、ソ連の一都市での攻防にかかりきりとなるのだ。

 もう一手のB軍団の目標であるスターリングラードでソ連軍は、国家指導者の名をいただく工業都市を死守すべく背水の陣を布いている。
 バクー油田と比べれば、爆撃で破壊されたスターリングラードはすでに戦略的意味をもたない場所だったが、市内に突入したドイツ軍と必死で抵抗する赤軍とで瓦礫の山の所有をめぐって殺戮をかさね合ううち、独ソの命運を賭けた決戦場へと概念は変わっていった。



 ドイツの貴重な時も戦力も、真の戦略目標とはまるで関わらぬ次元で浪費されてしまうのである。

 いまにして思えば、ヒトラーは、スターリングラードにこだわるほどなら、地中海の英軍拠点マルタ島をいかなる犠牲を払っても陥落させるべきだった。
 東部で全面的な守勢を保っても、一個師団をロンメルに増援することで活路が開けたかもしれないのだ。

 その北アフリカでは、いよいよ全体の戦局が決定的に傾く兆しがあらわれていた。
 空前の大船団を組織した英米軍が大西洋を突っ切り、モントゴメリーと向き合うロンメル軍の背後、モロッコとアルジェリアに上陸してきたのだ。
 迎え撃ったドイツの同盟者ヴィシー・フランス軍にできたのは、相手方に投降し、寝返ることだけだった。

 東西から挟み撃ちされたのを知ったロンメルの決断は早かった。彼は、ドイツの守備範囲から北アフリカを切り捨てるようヒトラーに進言するが、ヒトラーは彼を砂漠に釘付けにしておく意向のようだった。
 かくなるうえは、賢将のロンメルにアメリカとイギリスを引きつけさせ、ヨーロッパ侵攻を塞き止めている間に、全力を投入して主敵ソヴィエトを片付けようという腹づもりでいたのかもしれない。

 だが、東部戦線での状況も悪化の一途であり、敵を片付けるどころではなくなっていた。
 ソ連の大軍勢は、ドイツ軍が廃墟と化したスターリングラードを制圧している間に、包囲網を形成、逆にドイツ軍を市内に封じこめてしまったのだ。
 この期におよびながらヒトラーは、守備軍に踏みとどまらせ、空軍の総力を挙げて「スターリングラード要塞」と名付けられた袋小路への補給をおこなうよう命じる。

 おりしも、前年にモスクワ攻略を頓挫させた冬将軍の到来である。
 スターリングラードの状況は、日を重ねるごとに悲惨なものとなっていった。
 救援軍が吹雪の中を進むが、ソ連軍の反撃の前に守備軍との合流を目前にして進めなくなり、撤退。空軍の輸送も、敵の妨害と風雪で大きな損害を出し、糧食の補給さえままならない。

 絶望的抵抗の果て、ついに守備隊は降伏する。
 かくするうち、本当の重要拠点を目前に停止していたA軍団は、バクーの攻略を放棄し、空手のまま退かねばならなかった。

 宣伝相のゲッペルスは、これらの事実からスターリングラードの悲劇だけを強調することで、逆に国民の戦意高揚のため役立てようとしたが、本当の悲劇は、「青作戦」自体が甚大な犠牲のうちに挫折し、米軍到着以前に英国とソ連の双方に、迅速に痛打をあたえるというドイツ側の勝利への望みが断たれてしまったことだった。

 そして北アフリカでも枢軸軍は、まるで見込みのない状況におかれていた。
 ここにおよび、ヒトラーはようやく、増援を送り戦力を復活させたが(エル・アラメインのとき、これをしていればスエズを占領できただろう)、時すでに遅しで、ロンメルといえども圧倒的多勢に両面から迫られては名将でいることができない。
 ドイツに戻った彼は、再度ヒトラーにアフリカ撤退を進言するが拒絶され、アフリカ軍の指揮権までを剥奪されてしまうのである。
 そうするうち地中海の制海権は連合軍に牛耳られ、海路での脱出が不可能となった独伊軍には敵の捕虜となる運命が待ちうけていた。

 いまや、北アフリカは完全に英米連合軍の勢力下に入り、中東やイランからもドイツ軍を駆逐したソ連軍との間に、枢軸陣営を挟撃し、打ち砕くための巨大な包囲網が形成なったのだった。


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 給仕と厨房



 もっとも、これで連合国側の勝利が確定したわけではない。
 チャーチルによれば、反攻はまだ、「始まりの終わり」にすぎない段階だった。
 ドイツにとどめを刺すためには、数百万の将兵と装備、同盟諸国への膨大量の援助物資を欧州に陸揚げしなければならないのだ。

 無制限作戦により敵の全商船を標的とするドイツ潜水艦隊は、輸送船に何隻もで連携して襲いかかるという「狼群戦術」によって猛威を振るい、密林に踏み込んだ者がコブラを恐れねばならぬように、大西洋での目に見えぬ脅威とされていた。
 撃沈トン数は恐るべし、英米の船舶建造量を上回る規模にまで及んでおり、勝利に欠かせぬ大規模な船団護送を成功させるうえでの最大の障壁となっている。



 ヨーロッパへの侵攻をおこなう前に、大西洋での潜水艦活動をなんとしても食い止めねばならなかった。

 このとき、輸送ルートから独潜水艦を一掃し、航路の安全を回復させるという大任をやり遂げたのが、英国海軍を中心とする連合国側の護衛艦艇である。
 実に、彼らが引き受けた任務こそ、太平洋で日本海軍が果たすべきだが果たせずに終わったものだった。

 北アフリカ上陸の成功で余剰ができた軍船で組織した別働隊。商船を改造した護衛空母。海中に潜んだUボートを突きとめるレーダーを搭載した索敵機。そして、エニグマ暗号電文の解読……対潜戦術や海路の警護が大々的に強化されると、Uボートによる戦果は下降線をたどった。
 甚大な損害を憂慮したドイツ潜水艦隊はついに北大西洋から撤退することとなり、制海権は連合軍側に奪い返されたのだ。

 この「大西洋の勝利」は、ミッドウェーやマリアナ沖でのような、かぎられた水域に大規模な海上兵力が結集してのせめぎ合いではなく、洋上各所での小さな戦闘が積み重ねられることで達成なった戦果である。
 彼らの功績により、あとに続くイタリア上陸、ソ連への軍需品の補給、そして北フランスへの本格的な侵攻が可能となるのだ。

 ミッドウェー、エル・アラメイン、スターリングラード、ソロモン……第二次大戦中盤のあらゆる動きの中で、この「大西洋の勝利」こそもっとも重要な出来事だったとさえ評価できよう。

 第二次世界大戦とは、工業生産力と海上輸送力の成果を陸戦で競い合う戦いだった。
 戦況は、奇襲攻撃や死を恐れぬ突撃などより、軍需品の質量と船団護送の成否とによって根本から左右された。
 アメリカ合衆国のあまりにも名高い別名となった「デモクラシーの兵器廠」なるものの実体は、英米の海軍や護送船団が協調的に働くことではじめて有効に機能したのである。

 レストランの光景を思い描いてもらいたい。
 調理に大わらわの厨房でたっぷりしたご馳走が出来上がっても、接客を受け持った給仕が迅速にそれを運ばなければ、お客のテーブルに料理が並ぶことはないだろう。
 (さらに例えれば、テーブルに向かう給仕の足をすくって転倒させ、注文の品を待つ客を空腹で参らせようというのがドイツのUボート作戦だ。)

 連合国側に戦勝をもたらしたのは、少数の英雄やカリスマ指導者ではなく、乗組員の大多数を占める低教育層から成り立つ艦隊、まさに給仕の艦隊が、祖国と世界の命運を決するこの地道な任務を完遂したからにほかならない。

 逆にいえば日本の敗因は、ミッドウェーやレイテなど代表的海戦の影響よりも、根幹は、東亜水域と本州との交通が日本海軍の力では保全できず、輸送船がすべて海に沈められたことによる。
 日本近海での制海権まで失った大戦末期には、陸軍を中国から本土へ呼び戻すことすら至難となっていたのだ。

 たぶん軍令部の頭を占めていたのは石油の備蓄量と敵空母だけで、どの国よりも海運に多くを頼る祖国がさらされようとする危機の本質がまるでわからなかったのかもしれない。
 新しい時代の戦争は、空母機動部隊に主役の座が明け渡されたように見えながら、まさしく水面下では純粋に経済的で、軍艦よりも輸送船の撃沈数によって勝敗が分かれたのである。

 実は日本にも、性能は劣らず規模も小さくないという、立派な潜水艦隊が配備されていた。
 とりわけ魚雷の威力に秀でるその潜水戦力はしかし、間違いだらけの用い方により存在しないも同然だった。
 帝国海軍は、味方の潜水艦をUボートのように運用すること、敵の潜水艦をUボートのように駆逐すること、どちらにおいても無能をさらした。
 攻撃どころか島々に物資を補給する足代わりにされる有様で、日本も潜水艦で敵の海運を妨害するようドイツから忠告を受けても、艦隊決戦を信奉する頑迷ぶりは変わらなかったのである。
 戦艦大和を無為にしたことよりも潜水艦隊を無為にしたことこそ、海での敗北のはるかに大きな要因だったといえるかもしれない。

 それはともかく、ドイツは海軍力をもっと充実させてから戦争を始めていれば、そして連合軍側の対潜戦術をしのぐ戦術を繰り出すことができれば、合衆国の兵力と生産力がどれほど巨大でも、自由世界の資源を欧州に寄せ付けることなく戦いを進められただろう。
 デーニッツ提督の言葉は原理的には正しかったのだ。
「海戦はUボートの戦いだ。あらゆるものが、この主目的に従属する」

 ヒトラーにもはや、新大陸から欧州へと送りこまれる無尽蔵の兵員と補給物資の陸揚げを阻む手立てはなかった。
 ベルリンの陥落は東京の陥落と同じく、時間の問題のように思われた。


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 ムッソリーニ



 北アフリカを制圧した英米連合軍は、いよいよ地中海を越えて、枢軸軍が立て篭もる「欧州要塞」に押し寄せようとしている。
 だがドイツに、アメリカとソ連の二大国を相手取った両面作戦を展開する国力などはない。

 スターリンと有利な条件で休戦し、余力で英米軍に対するしかなかったヒトラーは、第一次大戦でツァーリの軍隊を壊滅させ、ロシアとの講和をもたらしたタンネンベルクの勝利を再現すべく、東部戦線で一大攻勢に出る。
 クルスクまで進出したソ連軍に南北から奇襲をかけ、包囲殲滅しようというものだが、準備が遅れるうちに情報が漏れ、攻撃が開始されたとき、相手側はすでに防備を固めてしまっている状態だった。

 両軍あわせて二百万の兵士と数千もの戦車や空軍機が入り乱れるという、第二次大戦で最大の地上戦が始まる。
 独ソとも大損害を出しながら伯仲の戦況だったが、このとき、ドイツ総統を動揺させる知らせがもたらされた。

 英米軍がついに、地中海のイタリア領土シチリア島に上陸してきたのだ。

 早まったヒトラーは、装甲師団をイタリアへの応援に差し向けるため、作戦の中止を命じる。
 結局、ソ連軍の反撃を支えきれなくなったドイツ軍は押し戻されることとなり、この史上最大の戦車戦以降、東部戦線での主導権はソ連側に握られてしまうのである。

 さて、イタリアだ。
 戦時中のアメリカ映画「サハラ戦車隊」で、こんな場面がある。
 捕虜にした独伊の兵士の間で言い争いが起き、イタリア兵がドイツ兵に次のような言葉を叩きつけるのだ。
「ムッソリーニはヒトラーと違う。最後には間違いに気付き、戦争をやめるだろう」

 連合国がドイツよりイタリアのほうにまだしも望みを置いていた証左だが、実際はずっと劇的で、イタリア国民はみずからの手でファシストから祖国を解放するところまでいった。
 つまり敗色が強まると、ムッソリーニが間違いに気付くより先にさっさと疫病神の独裁者を追い払い、反ファシズムの立場で英米と講和を結ぼうとしたのである。

 流血なき政変だった。
 ムッソリーニは多数決で罷免されたあと逮捕され、ファシスト党は解体に追いやられ、イタリアでの独裁体制はあっけない終焉を遂げた。
 終戦間近の日本でもかくあるべしと思えることを彼らはやったわけだ。

そもそもイタリア人には
アメリカと戦争している
意識がなかったらしい


 ファシズムの草分けであるはずのムッソリーニの政権地盤はなぜ、かくも脆弱だったのだろう?
 イタリアの実情がすでに、少数のファシストに牛耳られた被占領国といってよく、この時期には国民の間で支配者への不満がみなぎっていたからにほかならない。
 独裁者が全能でいられるのは大衆から歓呼される間だけなのである。

 もっとも、ムッソリーニはそのあと隠遁できたわけではない。
 ヒトラーの命を受けたドイツ特殊部隊が、アペニン山中にグライダーで降下、軟禁中の身である罷免された党首閣下を迎えに来たからだ。
 ヒトラーは救出したムッソリーニに、ファシストだけに支持される傀儡国家を樹立させる。

 ところで、政権交替劇が起きた後での新イタリアは段取り運びが不手際にすぎた。
 連合軍との交渉に手間取るうち、イタリア国土の大部分がドイツ軍の占領下に置かれてしまったのだ。
 やむなくローマから逃れたバドリオ政権はヒトラーに宣戦し、これを機に、ドイツ=ファシスト占領地帯で抵抗運動が燃え上がっていく。
 イタリア人は、ファシスト派と反ファシスト派で敵味方に別れ、血を流し合うのである。

 こうしたことは戦時中の日本では考えられもしなかったことだ。
 手本から学ぶのが得意な日本人なのに、国家危急のおりにイタリア人を手本とせず、最後の土壇場まで戦争をやめなかった。
 ドイツでも、少数の将校団が謀反を起こしたかぎりで、ベルリンが廃墟と化すまで戦いが続けられた。

 これでは、ドイツ人も日本人も「国に奉仕した」という以外に言いようがなく、したがって「卑怯者」のイタリア人のように、自分らは支配者に弾圧されていたと弁明するのは難しいだろう。
 たしかに、二つの国民は、ムッソリーニを追放したイタリア人とは違った。
 ドイツと日本は、ファシスト国家というよりむしろ、ファシズム型の民族主義者の大集団だったからとしか説明のしようがない。

 日独は、イデオロギーや制度との闘争ではなく人種戦争、それも民族自立のためではない、自己の属する集団以外のすべてを否定するという排他的な人種戦争を戦っていたのである。


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 国防圏



 太平洋で、巨人はついに動き出した。
 劣勢な持久戦を耐えぬいたニミッツ提督の太平洋艦隊は大型空母を主体とする新戦力が順次加わって増強され、かねての予定通り、反撃の時が訪れたのだ。
 太平洋戦争の主導権を握るのはまぎれもない、アメリカ海軍だった。

 対する日本にとっての勝ち目だが、戦力比からいえば絶望的である。
 帝国海軍は山本五十六の指揮のもと、虎の子ともいうべき機動戦力を使い尽くしており、甚大な犠牲と引き替えの戦果はチェスター・ニミッツの持ち駒を減らすことができたのみ。
 いまや、骨抜きとなった残存艦隊で、開戦時の数倍にも強化され、悠々たる態で反攻を挑まんとする空前の大海上部隊を相手取らねばならなくなったのだ。

 ところで。
 この時点ですら、大日本帝国が有利な地歩を占めていたことは強調に値する。
 アメリカの大艦隊といえども、いきなり東京に攻め込むわけにいかなかったのだから。

 いったい、ガダルカナル撤退の頃に勝敗の決まった太平洋戦争(すくなくとも日本に勝ち目は失われた)がすぐには終わらず、そのあと二年半も日米血みどろの攻防を演じねばならなかったのは、日本が侮れない戦力(海軍は半減したが、陸軍はほぼ無傷)で広い海陸を制していたからにほかならない。
 米軍の戦略が合理主義にもとづく以上、敵の制圧下にある水域を突きぬけ、一直線に本州侵攻をおこなうなど論外である(ドゥーリトル爆撃は単発の撹乱作戦にすぎない)。
 本土上陸の前に、日本の国力を弱め、守備陣形を切り崩さねばならなかったのだ。

 もっともニミッツは、本州まで占領しなくとも、海上封鎖と戦略爆撃で日本を降伏に追い込めると考えていた(「給仕」と「厨房」は、太平洋でも重大なキーワードだ)。
 潜水艦隊による洋上輸送路への攻撃が、すでにソロモンで多数の船舶を失った日本の傷口を広げており、敵防衛圏の補給体制はいずれ麻痺するであろう。
 米海軍はやがて西太平洋の重要拠点サイパンをめざすのだが、戦略上の目的は、東京に乗りこむ前準備というより、そこに建設した滑走路から日本本土への長距離爆撃を可能ならしめるためだ。

 実は、日本にとっての悩みもまた、守備範囲が途方もなく広がりすぎたことだった。
 あまりにも多くのものを世界から奪い取った日本は、すべてを守ろうとしてなにも守ることのできない有様でいる。
 本当に守るに値するものは国民のはずだが、彼らは軍人の言い付けに唯々諾々と従い、戦争を支えるすべての活動に命懸けで奉仕させられる始末。

 この問題は天皇臨席の閣議で討じられ、ついに定められたものが「絶対国防圏」である。

 攻め寄せる米軍を有利な条件で防ぎ、有利な条件で講和をもたらすための防衛ライン。
 占領下にある諸民族の統治、南方資源の確保と輸送、日本本土の防衛、すなわち大東亜共栄圏を維持するため必要最小限の範囲。
 千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、カロリン群島、西ニューギニア、ジャワ、スマトラ、ビルマ……いや、地名を列挙しても仕方がない。
 ただ、この巨大な輪の中に、マーシャル諸島、ソロモンや東ニューギニア、そして中部太平洋での海軍の最大拠点トラック諸島は含まれなかった。

 海軍にとってはまさに、進退きわまる事態だろう。
 トラック島から出撃した連合艦隊がマーシャル諸島近海で敵艦隊に勝負を挑む算段だったのに、作戦遂行に不可欠な拠点ばかりを蚊帳の外に押し出されては、城壁の外で敵を迎え撃つようになるのだから。

 しかしトラック諸島を切り捨てたことで文句を言うのはお門違いもはなはだしい。
 短期決戦しか頭になかった海軍首脳部の功績により、戦線は無秩序に拡大され、支えられぬ水域まで補給線が伸び切っていた。
 戦況が守りに傾き、帝国を保つため最小限度の線を引いてみれば、いかに国力を超えて兵を進めたかがわかったのだ。

 戦前までの作戦計画では、遠征してくるアメリカ艦隊に対し、水雷や魚雷による待ち伏せで徐々に弱体化させたあと、有利な日本近海において艦隊決戦を挑む手筈になっていた。
 日本の制圧海域が中部太平洋にまで広がった今、状況はずっと有利になったと思いきや、皮肉にも防御案でアメリカ海軍にあてがった役割を日本海軍みずから演じ(攻める方向は逆だが)、敵の前に大なる消耗を強いられている。

 伸びすぎた戦線を整理し、遠方での無駄な出血を抑え、かぎられた戦力をこの「絶対国防圏」のラインに集中させることが絶対に必要だったのだ。

 だが海軍は、マッカーサーがついに中部ソロモンと東ニューギニアへの反攻を開始したとき、はるか国防圏外にあるラバウルになおもこだわった。
 南洋における最大規模の前進基地となったこの島が無力化すると海軍の大拠点トラック諸島が脅威にさらされるからだ。
 海軍はいきおい反撃に出たものの、海陸で大損害を被って敗退させられる。

 このため、いよいよニミッツの機動部隊によってギルバート諸島やマーシャル諸島が危機におよんだとき、連合艦隊は待ち望んだ決戦を挑むことができぬまでに弱まってしまい、守備隊を見捨てるほかなくなった。
 ガダルカナル、アッツ、マキン、タラワ、クェゼリン、エニウェトク、ブーゲンヴィル……開戦以来、前方拠点維持に執着する海軍によって、遠方の島嶼で孤立し、犠牲にされた陸軍兵は数知れず。

 それでも陸軍としては、海軍の協力がなければ洋上での兵の移動もできぬため、対米戦での海軍に対する発言権は弱かったのである。
 片方は大陸を、片方は太平洋を、おのおの縄張りにするという、まるで別々の国の軍隊であるかのような、帝国陸軍と帝国海軍の非協調ぶりは、ドイツと日本がたがいに無関心だったのと同じほど戦局の動向に悪影響をもたらしたと言っていい。

 そうするうち、日本海軍の大根拠地であるトラック島そのものが米軍機の大規模な爆撃にさらされ、あっけなく壊滅となった。
 さらに、避難したパラオ諸島からも空襲による追い討ちを食らって、連合艦隊は退かねばならなくなる。
 この結果、前方決戦は夢と消え、無用となったラバウルは守備隊とともに放棄された。
 「絶対国防圏」はなお保たれていたが、日本は、そのラインに敵が攻め寄せる以前に、守るための艦艇も航空機も使い尽くすことにより、防壁を自壊させたも同然だった。

 一般の認識によれば、陸軍が忠君愛国を声高に叫び、日本の右傾化を強硬に推し進めたが、海軍は開明性と合理的思考をもって陸軍のやり方に反発したとされている。
 実際の様相は、かなり異なる。
 記される歴史によれば、どちらも、同じ時代をつくる同じ日本人であることに変わりはなかった。

 陸軍が日本を戦争に追いやったが、海軍はその日本を滅ぼしたのだった。

 もっとも、無謀さでは、やはり陸軍も負けてはいない。
 海軍のやり方にヒケを取らぬ二つの大作戦が並行しておこなわれようとしていた。

 中国大陸を縦断しインドシナと結ぶ大長征によって、連合軍に本土を爆撃させる飛行場を奪取したうえ、海路を補う南方からの陸上ルートを打ち立てるという気宇壮大な大陸打通作戦。
 そして、この期におよび遅きに失するインド国民議会との合流を、補給が困難な険しい陸路からめざそうとする自滅的なインパール作戦。

 結果は、インパール作戦から述べると、遠征軍はやはり補給が最大の障害となり、頑強なインド軍とイギリス軍の防戦の前に地獄図を現出させながら敗退した。
 それに比べると、大陸打通作戦のほうは成功といえる戦果を成し遂げたが、サイパン失陥による本土爆撃の本格化で無意味なものとなってしまう。日本近海の制海権まで奪われるにおよび、南方から北支への陸の補給路もまるで役に立たなかったのである。



 かくする間に、米海軍の機動部隊はついに、国防圏における本当の重要拠点サイパン島を奪取すべく、マリアナ諸島に攻め寄せてきた。
 状況はミッドウェーと似ているが今度は、日本が迎え撃つ番だった。
 不覚にも敵に手の内を読まれていたのもミッドウェーと同様、日本のほうだったが。
 そうと知らずマリアナ沖に出撃した連合艦隊は、数百の航空機を撃ち落とされ、空母三隻を沈められるという回復不能の痛手を被るのだ。
 救援の望みを断たれたサイパンは、数万の将兵と住民が玉砕する惨劇の場と化した。

 マリアナ諸島を奪回する力の失われた日本に、「絶対国防圏」を修復する術はなかった。
 内閣の首班は、彼ほど天皇の意に忠実な者はないと言われた東条英機(首相、陸相、内相、参謀総長兼任)だったが、この責任を取って辞任する。
 政府に陸軍の暴走を抑えることはできなかったが、政権を握った陸軍にも海軍の暴走を抑えることはできなかったわけだ。

 サイパン島を奪われたことで、日本列島は敵弾の射程に入る格好となった。
 数ヵ月後、サイパンから出撃したB29爆撃編隊による本土空襲が始まると、国民すべてが標的として、空襲警報におびえる不安な昼夜を強いられるようになる。

 われわれが祖父母から体験談として聞かされ、漫画や映画で馴染みとなった、乏しい配給でけなげに生きる罪なき庶民らが無慈悲な爆弾の雨に苛まれるという「戦争の悲劇」は、この時から本格化するのだ。


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 第二戦線



 ヒトラーの帝国を打倒するため、最大の犠牲を払ったのはソヴィエト連邦であった。
 数百万におよぶ戦死者を出しながら戦い続ける国家の統治者スターリン書記長は、アメリカとイギリスが西からもドイツを叩く「第二戦線」を開設し、東での負担をやわらげてくれるよう強硬に要求した。



 ルーズベルトが完全でなかった証拠は、スターリンのような男を信じてしまったことだろう。
 それまでも膨大量の軍需物資をソ連に援助していた合衆国大統領は、西側連合軍をフランス北部に上陸させることを請け合うのである。

 チャーチルは違った(チャーチルが完全な人間という意味ではない)。
 共産主義をナチズムと同じほど警戒する英国宰相は、戦後戦略を見こみ、「枢軸側の柔らかい下腹部」と呼んだ南欧方面からの進撃を主張するのだが、しかしイタリアの山岳地帯に立てこもるドイツ軍の頑強な抵抗の前に連合軍の進撃は難渋している。

 第二戦線はやはり、政治的深慮よりも戦略的常識を優先させ、大軍勢が平野づたいにドイツ領になだれ込める北フランスに展開されねばならなかった。
 スターリンが恐るべき悪魔だったにせよ、ケンカをはじめる前に、もう一つの悪魔を速やかに片付けておくのが道理であろう。

 英米連合にとっての欧州戦争とは、ソ連と助け合ってドイツを打ち倒す戦争ではなく、どちらが先にベルリンに乗り込むかという競争ですらなく、できるだけ西側の被害を少なくできるよう、ドイツとソ連にいかに多く殺し合わせるかが戦略の核心となっていた。

 そのためには、大量の補給物資を東側に惜しみなく援助するほか、もしも東部戦線の戦況が不利になり、スターリンがヒトラーとの講和に傾きそうになった場合、英米軍は西側で陽動作戦をおこなうことでドイツの戦力を引きつけ、かくして立ち直る猶予のできたソ連にドイツとの死闘を続けさせねばならない(ちょうど、クルスク会戦さなかのシチリア島上陸がこうした思惑どおりの結果をもたらした)。

 とはいえ、いまは1944年。イタリアは降伏し、ソ連軍はドイツ軍を自国領土から駆逐するところまで押しまくっている。
 「第二戦線」開設の目的は、「ドイツを牽制する」だけにとどめる必要はなくなっていた。

 もっとも、イギリス南部に集結して決行の日取りを待ち受ける二百万人もの上陸部隊にとって、そんなことはどうでもよいことだった。
 戦局もここまで来れば、反枢軸側の勝利は確定的だ。
 連合軍将兵にとってオーバーロード作戦への関心は、「勝てるか、負けるか」ではなく、「いつ、やるか」にだけかかっていたと言っていい。

 これはすでに、ドイツにとどめを刺す行動であっても、戦局を決する大博打ではなかった。
 独軍上層部がBBC放送の暗号文朗読に対処していれば、ロンメルが現地で指揮を執っていれば、総統が不眠症でなければ、V兵器の投入がもっと早ければ……といった「こうしていれば」をいくら列挙しようと、もはや些事を寄せ集めることでしかない。
 よしんば数百万の兵員を擁する英米軍がノルマンディでの橋頭堡設営にしくじったにせよ、東から攻勢を開始したこれも数百万の赤軍兵が第三帝国を瓦解に追いやることになっただろう。

 そのうえ、戦略爆撃がドイツの工業に壊滅的な打撃をおよぼしていた。
 占領地とドイツ本国のあらゆる生産設備や輸送手段を標的とした英米軍による空からの攻撃は、軍需産業を機能不全に陥らせ、物資の補給や軍の移動を妨げた。
 絶大な空軍力を見せつける連合国側に制空権をがっちりと握られたうえは、軍需相シュペーアの采配をもってしても、生産を回復させるのは絶望的だった。
 英米軍は、北フランスに一歩も踏み込まないうちから、敵の軍需供給能力を大きく削ぎ落とすことで、第三帝国を半身不随の状態に陥れていたのである。



 かくするうち、「史上最大の作戦」が敢行された。
 果たして、守備軍に上陸軍を水際で叩き潰すことなどかなわず、ノルマンディの平野で大損害を受けたドイツ軍は逆に、総崩れとなって敗退することとなる。

 時を同じくした頃、ドイツは、新兵器V1号、V2号を相次いで投入。欧州からドーバー海峡を超えて飛来する数千発のロケット弾がロンドンを動揺させはしたが、それで形勢の挽回などできるものではない。

 しかも動揺したのはロンドンだけではなかった。
 勝利の間は一丸となっていたドイツでも、総統への忠誠は揺らぎはじめたのだ。
 総統大本営でのヒトラー臨席の会議中、鞄に仕掛けられた爆弾が炸裂。将校数名が死亡するという惨事が起こるが、不幸にもヒトラーの命に別状はなかった。
 暗殺グループはベルリンを占拠し、新政権を樹立しようと図るが、たちどころに鎮圧されてしまう。
 ヒトラーは反逆者らに苛酷な処罰をおこない、関与の疑いがあったロンメルにまで服毒を強要するのだった。

 東部戦線でもドイツの守備陣形は大きく切り崩されようとしていた。
 バグラチオン作戦を発動したソ連軍は、圧倒的に優勢な兵力でドイツの防御陣を突破し、白ロシアとウクライナからドイツ兵を駆逐してのける。
 さらにポーランドに攻め入って進み、独ソ戦が始まった位置まで侵入者たちを押しやってしまうのである。

 占領地域でのレジスタンス活動もひときわ活発になった。

 ソ連軍が間近に迫ったワルシャワでは、首都を独力で解放すべく、市民らが武器を取って立ち上がる。
 ところがソ連軍はワルシャワの目前で進撃を停止させた。市民軍はドイツ軍に激しく抵抗するが、来援が受けられぬまま追い詰められて玉砕、ワルシャワは廃墟の町と化してしまう。
 解放後、西側寄りの市民軍がポーランドの首都で大きな勢力になるのをスターリンが嫌ったからだといわれる。

 ワルシャワほど大規模ではなかったが、パリでも一部の市民が武装蜂起する。
 パリを迂回して進撃する予定だったアメリカ軍だが、急ぎ、自由フランス軍を後押しし、彼らの首都を解放させた。
 のちにアメリカがフィリピン奪還で見せるような、戦略的動機から離れた政治的意図による軍事行動であった。
 これにより、ドイツに立ち向かった市民の大半が共産党員だったにもかかわらず、反目するド=ゴール派が政権を掌握してのける。

 枢軸陣営は音を立てて崩れはじめた。
 ソ連軍が迫ると、ルーマニアが寝返って、ドイツに宣戦。
 ハンガリー、ブルガリア、フィンランドも相次いで、赤軍の前に武器を捨てた。

 勢いに乗ったモントゴメリーのイギリス軍は、クリスマスまでにベルリンへ攻め入ろうとオランダで一大空挺作戦を展開するが、ドイツ領への進撃路を確保できぬまま伸びきった補給線の端で大休止をとらねばならなくなる。


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 特攻



 この時点で日本にとっての最良策は、無条件降伏を受け入れることだった。
 有利な講和など論外である。
 すでに敵と渡りあう力は失われ、南方はおろか本国を守ることすら無理なのだ。

 本土の防空体制はお寒いもので、空襲されれば太刀打ちできなかった。
 洋上輸送路も敵潜水艦の縄張りとなり、撃沈される船舶の数は増すばかり。
 連合軍は、補給路の遮断と軍需生産力の破壊によって、日本を確実に締めつけていた。

 皺寄せは国民生活におよび、皇国の臣民はいまや、祖国から搾取をこうむる最大の集団となりつつある。
 国民に大きな被害がおよばぬうちに、国家的投降を選ぶのは政府の務めのはずだった。

 にもかかわらず、日本は戦争を続行しようとした。

 東条政権が瓦解してから、政府は常軌を取り戻したわけではない。
 東条の退陣は大将の首が挿げ替えられたにすぎず、イタリアのように政治体制が劇的に革新されるでなし、前と変わらず軍人主導のままに救国の道を模索するばかり。

 あと一戦、海上で勝利を挙げてから有利な条件で講和を成り立たせることに、なおもこだわる人々がいた。
 敵軍を本土に上陸させ、有利な条件のもとに温存させた陸上兵力で決戦を挑もうとする人々もいた。

 今日からすれば無理強いの極みだが、当時の人々からはそう思われなかったようだ。
 その証拠に、どちらの言い分も、日本の国家戦略として具体化されることになるのだから。

 本土決戦とその準備の時間を稼ぐための捷号作戦である。

 軍人とて大多数は勝算など抱いておらず、ただ屈辱的な無条件降伏を甘受するのでなく、祖国がもっと誇りある立場で休戦交渉の場に臨めるよう願わずにいられなかったのだ。
 「日本の怖さを思い知らせてから」というのが共通の執念となっていた。

 勝ち目の失われた戦争を遂行する国、しかも戦争を遂行する力すら失われた国が、降伏の仕方にこだわることでこれほど犠牲を増やしていった事例は、世界の戦史に見当たらない。


 この頃、米軍のほうでも大反撃の準備が進んでいる。
 アメリカでもっとも人気ある軍人、マニラへの帰還にこだわるダグラス・マッカーサーが、念願をかなえるべくフィリピン奪回作戦をおこなう承諾をルーズベルト大統領から取り付けたのだ。

 軍事的見地からすれば、これだけ米軍が優勢になった今、フィリピンに寄り道するのは無益でしかない。とにかく日本を屈服させれば、占領された島々は解放されるからだ。
 しかし、ここで政治的な命題が頭をもたげてくる。

 日本軍に攻められたとき、フィリピンは数年後の独立をアメリカ合衆国から約束されていた。
 それから大東亜共栄圏の一員として、ラウレルを首班とする傀儡政権が樹立されたのだが、その政体が戦後にまで持ち越されると、アメリカは旧主国としての権益を失う恐れがあった。
 日本を降伏させるより先に、フィリピンを取り戻しておくべきだろう。


 日本は捷号作戦を、米軍の侵攻範囲に応じて、四つの作戦案に区分した。
 ついにレイテ島に、マッカーサーの陸軍とそれを援護する世界最強の海軍が押し寄せたとき発動されたのは、「捷一号作戦」である。

 陸軍は数十万の兵で島々の守りを堅め、海軍は連合艦隊を総動員させて立ち向かう。
 彼らはすべて、本土決戦のための捨て石であった。
 広大なフィリピン群島の海域そのものが舞台となる史上最大の海戦の火蓋は切って落とされた。

 艦隊戦力を分散して敵に挑んだ日本は、洋上各所で損害を重ねていく。
 それほどの犠牲を出しながらも、囮役の艦隊が米機動部隊をおびき出したすきに主力艦隊がレイテ湾に突入、マッカーサーの上陸部隊を殲滅させるという作戦の要となる目的が達成されそうになった。
 海軍の待望した「勝利の一撃」が現実となる瞬間だった。
 その好機も結局、悪名高い栗田提督の反転命令によって取り逃されてしまうのである。

 レイテ沖海戦の結果、連合艦隊のあらかたが失われ、帝国海軍は瀕死の状態となった。
 レイテ島やルソン島に送り込まれた陸軍将兵には、強力な米軍に追いたてられ、幽鬼のように密林を彷徨する運命が待ち受けていた。



 ところで海軍は、この戦いに近代戦の常識を覆すような捨て身の爆撃を敢行する航空部隊を投入することで、相手方を戦慄させ、ひとつの日本語を世界で通用する言葉にした。
 その言葉は千年先まで残っても、その名で呼ばれる特別攻撃隊が編成された事実を、千年先の人々は伝説としか思わないかもしれない。
 この頃の日本の航空機搭乗員の未帰還率は甚大なものとなっており、その割に敵にあたえる損害は僅少だった。
 出撃させても撃ち落とされるだけならば、いっそ爆弾を抱えたまま敵艦に体当たりさせてしまえという、「海軍流の合理主義」による決定だったといわれる。


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 ベルリン



 いまや、ドイツの起死回生への望みは断たれてしまっている。
 油田と合成石油の設備は爆撃で破壊され、戦争遂行に不可欠な燃料が欠乏をきたした。
 V型爆弾やジェット戦闘機など新兵器の投入でも形勢を挽回できず、原子爆弾の開発に成功する目途も立たない。

 これだけ弱体となった祖国の総力を挙げ、ヒトラーは最後の大博打に出るのだ。
 再びベルギーを走破する大がかりな攻勢をかけ、西側連合軍に痛打をあたえて講和に追いこんだあと、余力をあげソ連との戦いに集中するという無理強いをきわめた作戦であった。

 豪雪の中、急ごしらえで準備された反撃は開始された。
 アルデンヌの森を突き進む戦車の大部隊が奇襲をかけ、米軍を一時的に潰走させたものの戦線の突破まではならず、敵の広い守備陣の中に突起部をつくるだけの結果となる。
 やがて不意討ちによる混乱から立ち直った連合軍の迎撃が強化されてくると、燃料の不足したドイツ軍は進退きわまってしまう。
 かくして、ヒトラー最後の攻勢はあえなく挫折した。

 しかも、東部の守りをおざなりにしてまで兵をかき集めたのがたたることになる。
 対陣していた数百万のソ連軍が総攻撃の準備を整え、ついに押し寄せてきたのである。
 彼らは、バルト海からヴィツラ河までの全戦線を驚くべき速さで突き破ると、ドイツ領へとなだれ込んだ。

 あまりにも弱体となったドイツの戦力では、赤軍に祖国を踏みにじられても抗する術がなかった。民間人への暴行も掠奪も、復讐に燃えるソ連兵のなすがままだった。

 側近の将軍は、バルカンやノルウェーの守備を放棄し、全戦力を対ソ防御に集中させるよう進言したが、この期におよんでもヒトラーはドイツが獲得したものを手放したがらなかった。
 そればかりか、撤退する時はあらゆる設備や資源を敵に渡さぬよう破壊するという恐るべき「焦土戦術」を命じるのである。

 確定した勝利の上に居座った米英ソの三国首脳は、クリミア半島のヤルタで会談した。
 戦後の欧州地図を塗りなおすための顔合わせだが、さらに、ソ連の対日参戦の取り決めがおこなわれ、ドイツが降伏して三ヶ月後に東に兵を動かすことをスターリンは請け負った。
 ソ連書記長は、この手の約束なら立派に果たす男だった。
 そのような人物を信頼し、米英との講和を取り成してもらおうとした日本だが、世界中から信頼されていなかったわけである。

 もはや、連合軍の進撃は止まらなかった。
 ついにライン河を渡った英米軍が、ルール地方の敵守備軍を孤立させ、さらにドイツ領内を突き進もうとするとき、ひとつの訃報が世界を驚かせる。
 合衆国大統領ルーズベルトが死去したのだ。

 世界中が喪に服する中、ドイツ人の戦い続ける範囲のみが喝采に湧き立った。
 フリードリヒ大王の奇跡(プロイセンに攻め入ったロシア軍が女帝の崩御により撤退した史実)の再来だと悦ぶヒトラーはじめナチ首脳部だが、彼らが国運を賭していたのは総力的な国民戦争だった。
 後任のトルーマンは勝ち馬に乗って進むだけでよかったのである。

 だが、アメリカ兵はけっして、ベルリンにまで攻めてはこなかった。
 ドイツの首都を攻め落とすには十万人の犠牲が必要との見積もりを懸念した西側連合軍司令官アイゼンハワーは、ベルリンの攻略をソ連軍にまかせたからだ。

 かくしてソヴィエト赤軍の大集団が最後の詰めを果たすべく、オーデル河とナイセ河を越え、ベルリンめざして怒涛の進撃を開始した。
 彼らは、ドイツ軍民の前に暴虐をきわめながら東部のドイツ諸地方を侵食した果て、爆撃による惨害で見る影を失った第三帝国の首都を包囲する。
 ドイツ守備軍は、わずかな戦力で必死に抵抗するが、陥落は時間の問題だった。
 側近はヒトラーに、ベルリンから逃亡するよう進言したが、ヒトラーは総統官邸から去ろうとせず、最後の日まで地下壕で暮らすのである。

 裏切り者も相次いだ。
 前線での投降者や脱走者が続出し、イタリアでは全ドイツ軍が戦闘行動を停止した。
 とうとう、ナチ党の最高幹部までが疑わしい振る舞いを見せるようになり、捕縛される。
 ゲーリングは総統権限の譲渡を迫り、親衛隊長官ヒムラーは秘密裏に英米側に和平を打診したことが暴露されたのだ。

 ソ連軍がいよいよ総統官邸まで迫った頃、さらに絶望をもたらす知らせが入った。
 逃走中、反ファシストの手に落ちたムッソリーニが愛人ともども処刑され、遺骸をミラノの広場に吊るされるという無惨きわまる末路を遂げたのである。
 ヒトラーは、自分が死んだあと、さらしものにされぬよう遺骸の焼却を命じると、長く連れ添った愛人エバ・ブラウンと地下壕で挙式し、ともに死の世界へと旅立っていく。



 占拠された国会議事堂にソヴィエトの赤旗が掲げられ、ベルリンの戦いは終わった。
 ドワイト・アイゼンハワーの司令部に出向いたヨードル元帥は、無条件降伏を受け容れる。

 ドイツが降伏したのは、第一次大戦の時ですら味あわなかった破滅的敗残の中で、国を滅ぼした果てようやく個々の身に戻り、生き延びる術を手探りする民衆以外のすべてが失われたあとだった。


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 ポツダム



 ヨーロッパ中が重苦しい後味を噛みしめながら、静けさと騒がしさが混沌とするうちに平常感を取り戻す一方、太平洋での流血はまだ続けられていた。

 連合軍にとっての戦略はもはや、いかにして勝つかではなく、いかに味方の犠牲を抑えて日本を屈服させるかにかかっている。
 一方、日本の国策もすでに、民族の威光を知らしむることよりも、いかに体面を保って相手側と和議を成り立たせるかに向けられるようになった。

 和議に際しての大日本帝国の留保条件は、国土を占領しない、軍備を残す、戦犯を裁かない、そして天皇制を存続させるという、立場をまるでわきまえないものばかりだった。
 戦況がいよいよ絶望的になると、それらのうち三つは取り下げられ、「天皇制を残す」一点にのみしぼられる。

 しかし連合国側からすれば、戦争を終わらせるには即刻の無条件降伏があるのみだ。
 ヒロヒトに帝の地位を保たせたまま停戦するのは、ヒトラーが政権の座に居座るままのドイツと和解するのもおなじだった。

 日本の天皇がイタリア国王と決定的に違うところは、天皇は陸軍と海軍に統帥権をもち(だから、「統合参謀本部」のような発想が生まれなかった。それは日本の大きな敗因となった)、しかも連合国への宣戦が天皇自身の名において布告されたことだろう。
 実際は軍部の傀儡であるにせよ、国政にまったく関与できぬ身ではないとされていた。

 すなわち、天皇の名において始められたこの戦争は、天皇が受け容れる無条件降伏によって終わらせねばならなかったのだ。

 しかしながら。
 太平洋の戦いは大詰めを迎え、いまや本土上陸の前哨戦ともいうべき様相だが、硫黄島でも、沖縄でも、守る側は軍民ともにいっそう死に物狂いとなり、しかも攻める側に多大な犠牲を強いるようになっている。

 こうした日本人が示す戦いぶりは、連合軍将兵の間に、恐慌に近い恐怖を広げつつあった。
 ジャップの奴らは皆殺しにされるまで、女も子供も戦い続けるというのか?
 日本国民は「一億玉砕」なる標語のもと団塊となり、その疑問に答えをあたえていた。

 日本はまったく狂った国として見られ、こうした集団を根絶やしにするのと引き替えに一人の連合国将兵の命を捧げるのも割が悪いと思われるまでになった。
 東京を攻め落とすまでに犠牲となる白人兵は数十万におよぶとされ、米英がソ連を対日戦に引き込んだのも、可能なかぎり西側諸国の犠牲を抑えんがためである。

 折りが良いのか悪いのか、このタイミングでし遂げられたマンハッタン計画の成果は、待ち受ける悲劇を回避するための切り札として使われることになる。

 故ルーズベルト大統領の秘蔵っ子と呼ぶにふさわしい原子力爆弾の実現だが、チャーチルを肺炎から快癒させたとされるペニシリン同様、まさに多くの命を救う救世主のように歓呼をもって迎えられたのだ。
 たしかに当時のアメリカ人は、日本人を殺すことで罪の意識はあまり覚えなかった。

 原爆にはまた、東欧に続いて極東でも領土欲による暴走を起こしかねないスターリンを牽制する効果が期待された。
 すでに冷戦の萌芽はあらわれており、トルーマンやチャーチルにとって、悪あがきを長引かせる日本よりも、東欧での横暴ぶりで本性をさらけ出した共産主義ロシアこそが、より堅固な備えの必要な、真に恐るべき敵として意識されるようになっていた。

 トルーマンにとって、原子爆弾は、破竹の勢いで太平洋まで押し寄せてくる赤軍の鼻っ先に放り投げる爆竹であり、それで進撃が約束の範囲を越えぬよう警告する意図があったのだ。

 連合国側はいよいよ、最後の勧告ともいうべき共同宣言を世界に向け、発表した。
 ベルリン郊外の町ポツダムで、トルーマン、チャーチル、スターリンの三勝者が戦後の勢力図について討議する中、スターリンを蚊帳の外に置き、アメリカ、イギリス、中国の三国間で合意されたものであり、日本がただちに無条件降伏を受け容れねば恐るべき対抗措置を行使するという内容だった。

 この宣言文には天皇の戦争責任をめぐる処遇が盛り込まれておらず、日本政府がなおも食い下がる十二日間のうちに、マリアナ諸島の米軍基地から「恐るべき対抗措置」を搭載した爆撃機が発進してしまうのである。

 広島をきのこ雲で包み込んだ新型爆弾は、けっして人類史上未曾有の規模ではないにせよ、類例を絶する被災状況をあらしめることにより、葬った都市の名を世界語に加えた。

 衝撃は、さらに続く。
 それから二日後、二百万近い赤軍の大集団が満州・樺太へとなだれ込み、そして翌日、今度は長崎上空で二発目の原子爆弾が炸裂した。 

 原爆による二都市の被災よりも、巨大なソヴィエト連邦が日本の敵となった事態のほうが日本政府を揺さ振ったのは間違いない。
 そもそもソ連は、中立条約により絆を保っていた国であり、英米との仲介を取り持ってくれるはずの国だった。
 ソ連の対日参戦によって、日本には世界のどこにも頼るべき相手がいなくなってしまったのである。

 大ニッポンにとって、万事がきわまった。

 かくして数日のうちに、二度にわたる天皇臨席の閣議を通し、もはや日本には無条件降伏を受け入れるほか選択の余地がないことが確認されたのだ。
 幾百万もの国民を犠牲にした後での、あまりにも遅すぎる選択の余地の確認であった。



 大日本帝国は滅び去り、日本人はダグラス・マッカーサーという新しい支配者を迎えた。
 日本列島の住民が異種族の支配に伏するのは史上これが始めてではなかったし、その証左に、占領軍による統治は驚くほど円滑に進められることになる。

 東京湾で待ち受ける米戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式は、新しい日本が国際社会に復帰する契機となる出来事だった。
 調印を取り交わす相手国は、アメリカ合衆国、大英帝国、中華民国、ソヴィエト連邦、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フランスの九か国だが、日本に対し宣戦していた国はさらに多い。

フィリピン、インド、ベルギー、ルクセンブルグ、ノルウェー、ギりシア、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラヴィア、南アフリカ、メキシコ、ブラジル ボリビア、ペルー、パナマ、エルサルバドル、キューバ、ハイチ、ドミニカ、グァテマラ、ニカラグア、ホンデュラス、コスタリカ、エクアドル、トルコ、イラン、エチオピア、イラク、エジプト……。
日本国民は、ほぼ全世界を敵とみなして戦い続けたあげく、身を捧げても守るに値すると信じていたものが身を縛る鎖にすぎなかったことを思い知らされたのである。


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 審判



 茶番でしかなかったニュールンベルグと東京の法廷について、いまさら語っても仕方があるまい。
 戦勝国の裁判官は、わずか数千人を見せしめとして処すことで、幾千万もの命が失われた世界的殺戮の主動力だったドイツや日本の国民一人一人に罪を自覚させる重要な機会を奪い取ってしまったのだ。

 実際、後代の目からはなんとも納得できない判決としか言いようがないだろう。
 「夜と霧」ひとつを取り上げても、何百万ものユダヤ人を葬り去った計画的虐殺の責がわずか一握りのナチ高官に帰するとは不可解なことである。
 あれほど巨大な規模の犯罪が推進されるには、悪事を悪事と思わず実行できる土壌がなければならず、そのおなじ土壌がヒトラーを台頭させたはずなのだ。



 そうしたことは顧みられず、戦勝国は二つの敗戦国から生け贄を選び出しただけで、ドイツと日本の国民すべてを実行犯として裁かず、責任を負わせようとはしなかった。
 そこまでやれば、統治能力の上限を超えると知っていたからに違いない。

 そう。裁けなかったのだ。
 戦勝国は、相手方の国民のうち、ごく少数にすべての戦犯行為の責を負わせるというトリックによって、残りの大多数を自分たちの側に引き入れる最後の大作戦を成功させた。

 第二次世界大戦の正義とは力で実現できる範囲の正義でしかなかったことになるだろう。
 二つの大法廷の執行力をもってしても、「悪人に権力を握らせると、民衆は悲惨な目に遇わされる」という童話的認識をついに変えさせることはできなかったのだから。

 余波は今日にまで及ぶことになった。

 広島や東京空襲をあつかったアニメなどを見ると、原爆も焼夷弾も、か弱い民衆のおよびもしない高所から降り注いだ理不尽な大災害のように描かれるものがほとんどだ。
 戦時下の国民生活の素描という点で間違いではなく、無差別爆撃の恐ろしさを訴える手法としてそれで正解にしても、どこか嘘っぽく感じられるのは、まさに、この哀れな民衆によって戦争が支えられた実態が無視されているからだろう。
 本当のところ、彼らはどこまで被災者だったのか?

 戦場体験者は語る。
 「俺らの捕虜になった敵兵や占領地の住民は悲惨だった。でも、俺らの境遇も悲惨だった。俺らも連中とおなじに苦しんだから、自分も被害者としか感じられんのだなあ」

 この言葉を否定しようとは思わない。
 それどころか、当時を生きた日本兵の生理的な本音として銘記すべきだろう。
 敵の砲撃下、疲労困憊となった兵隊に身を隠すための塹壕掘りを命じても、従わせるのは難しかったという。
 人間とは肉体の負担が限界を越えると、道理に従えなくなるばかりか、モラルまでが麻痺してしまう生き物らしい。

 罰にも等しい苦境のうちに罪を犯した者に、心から罪を自覚させるのは絶望的に難しいことなのだろう。

 おなじ道理が銃後の国民にも当てはまる。
 われわれの祖父母は戦犯国家の国民であると同時に、一人一人が、第二次世界大戦という近代から現代への通過点で起きた激動をくぐり抜けるという、われわれには及びもつかない体験をしている。
 彼らに自分が被害者だったという実感しかないのは致し方なく、後世の者がそのように語られる体験談を否定するわけにもいかない。

 実際には、看護婦であれ女学生であれ、総動員体制に奉仕した戦争遂行者以外のなにものでもないにせよ、彼らの身ではそうした、一人一人を国家の戦力としてあらしめる巨大な仕組みの中での歯車だった自分を感じ取れないのである。

 敗戦という、生き残れたのが不思議なほどの(だれもが「一億玉砕」の覚悟をさせられた)、名状しがたい辛酸を舐めながら、いまさら戦犯者の仲間に仕分けられ、集団的な罪過を負わされるのは納得できないことに違いない。
 「戦争に勝っていれば、日本は正義の側だったのに」と思いたいのは当然だろう。

 だが、日本は戦争に勝たなかった。
 しかも、勝てなかった理由そのものが日本を犯罪国家たらしめた条件の中に見出せるのだから、残念だが大東亜戦争の結果については、「勝てば官軍」という言葉は当てはまらない。

 ドイツと日本の失敗は、戦略以前の次元にあり、弱肉強食式の植民地主義が廃れようとする頃、まさにそれが自国を繁栄させる未来の潮流だと思い込んだところにある。
 軍服や兵器など見かけのスタイルばかり先端的な第三帝国だが、精神面では旧態そのものだったのだ(現代日本人の「情報化時代」の受け取り方が、これと同じなのは強調しておきたい)。
 時代に逆行する存在は淘汰されねばならず、ドイツと日本の運命は軍国的な拡張主義を選択した時から定まったと言っていい。
 一方、老舗の帝国主義陣営では、フランスやイギリスはともかく、アメリカは将来への移行を着々と遂げつつあったことを見落としてはならないだろう(あまりにも見落とす人が多い)。

 連合国側が絶対的に正しかったとは言えない。
 現に、勝者の側にはスターリンのような男さえいる。イギリスやアメリカもまた、第二次大戦へと至る前には各地でさまざまな暴虐を働いてきたのである。
 極言すれば、米英ソの功績は、ドイツと日本に未来を渡さなかったことだけと言っていい。

 だが、彼らのほうがドイツや日本よりも現実に沿った戦略を打ち出すことができた分、集団エゴで世界を圧倒しようとするだけの枢軸側よりも軍神の寵に恵まれ、士気だけは旺盛だった敵側を打倒する結果をもたらした。
 したがって、世界を救った者として歴史をしるす立場があたえられた。

 今日、そうした史観に異議を唱えることはできるにせよ、敗戦国の者が自国の過去を極端な美飾によって正当化するのはむずかしい。
 スターリンがあまりにも悪すぎる男だからといって、彼と戦ったヒトラーこそ正義の戦士だったと言い張る者はいない。
 同様に、東の泥棒が西の泥棒から領土を掠めようとしただけの大東亜戦争が聖戦だとこじつけるのは、当時の情勢をまともに眺められる者の中にはおらず、せいぜい、くだらない漫画を読みすぎて妄想にふける者だけであろう。

 実際、日本が英米に挑戦しなければアジアは永久に植民地のままだったというのは、白人至上主義を裏返した差別観にすぎず、アジア人全般をこのうえなく侮辱した言い草だ。
 心ある日本人なら発言の無神経ぶりに気付くはずだが、今日でも大日本帝国を擁護する人々は、そうした言葉を口から出してはばからない。

 黒人の平等権獲得が南北戦争とは無関係であるように、アジア諸国の解放はけっして大東亜戦争がもたらした恩恵ではない。
 大ニッポンの功績を賛美する者がいるとしても、日本の経済援助を目当てに揉み手ですり寄るような、こずるい下心からであろう。

 いや。
 取り留めをなくしつつあるようなので、結論を急ごう。

 要するに、日本人は自分の国を管理しようとしなかったのだ。
 近代国家の市民としてまるで成っておらず、なにより尊い国家の運営は一握りの選ばれた連中にまかせきり、自分たちは「御上」に従い、奉仕すれば褒美にあずかれると盲目的に思いこんだ末、廃墟と戦時責任だけを残し、祖国を滅ぼした。

 われわれはこうした事実から、教訓をつかみ取らねばならない。
 「個」を喪失した、国家の言いなりになるだけのような「愛国」と「自己犠牲」が、勝利と栄光をもたらすわけでなく、逆に亡国へといたらしめる場合すらあることを。

 それこそ、あの十五年戦争での数百万の犠牲を無駄にさせない唯一の方途なのだから。


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 おわりに



 あらかた書いたのを読み直してみると、わが日本のことを冷淡に書きすぎた気がする。
 まあ、これで行くとしよう。
 日本のことを心から批判する資格があるのは日本を愛する者だけで、さんざん甘やかしておだて上げ、ダメな国にしてしまうより、ずっと愛国的な行為だろうから。

 さて。
 最後に筆者も、市民としての務めを果たして、この大戦小史を締めくくろう。
 各方面で叩かれまくった「戦争論」にとどめの一撃だ。

 あの作者は、幼少期に「零戦ハヤト」のような戦記ものヒーローに憧れた世代に属する。
 自分の国はとにかく正しい側なのだという思いが捨てきれず、日本が侵略国家だった史実を示され、うわべは納得しながらも、心の奥底では「そんなはずは」と思ってきたに違いない。

 「ゴー宣/戦争論」は、そうした大人になろうとしない者がついに暴発させた、世界の現実に吠えかかるシュトゥルム・ウント・ドランクだが、この中高年以上にしか受けないはずの「大東亜聖戦論」が引きこもりの年少者までとり込み、広い層でのブームとなったところに現代日本の病理性を感じる。

 個人として自己確立できない半端者が群れ合って、国家とか民族といった抽象的なものにしがみつき、集団的な虚妄をひたすら団体行動で具現化しようとする……ヒトラーの台頭を受け入れた人々と不気味なほど似ているではないか。

 こうした連中はいざというとき罪を肩代わりさせられる旗印を押し立てるのが常だが、あいにく、もし団塊となった「戦争論」信者がなにかしでかしても、「小林よしのりがあんな本を書いたから」と言い訳して済ませられる時代ではなくなっているのを胆に銘じてもらいたい。
 いかなる意味においても、現在は大東亜戦争の頃とは違うのである。



平和は大勢の人によって守られるものでしょう。
でも、悪魔は平和な時にも、ずっと大勢の人たちの中で生きようとするのです。





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