そもそも、「30万人も殺されてないから南京大虐殺なんて嘘っぱち」といいはる馬鹿は国外にはおらん。死者数はどうあれ皇軍による暴虐が否定できないという点で歴史家の認識は一致しておる。
もともと日本政府の見解も「皇軍の暴虐」を否定するものではなかった。「30万人も殺してないのに」などと話を変な向きにそらしているのは、世界中で安倍政権の政治的支持層とネトウヨ諸氏だけである。
南京大虐殺(Nanjing Atrocities)とは?
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1937~38年、日本軍にとって支那事変(日中戦争)の最終局面となるはずだった中華民国首都南京への進撃、攻略、そして占領後数ヶ月という期間に、略奪、強姦、捕虜や民間人の殺害等、日本兵によって犯された大々的な逸脱行動全般をさす。
東京裁判で裁かれはしたが、第二次大戦中の出来事ではない。むしろ日中戦争がここで終わらず長期化したのが遠因となり、日本は第二次大戦へと踏み込んでいったのである。
南京戦のはじまる前の時点で、国際連盟は中国への都市爆撃で日本を非難、ルーズベルト米大統領は有名な「隔離演説」をおこない、さらに九カ国条約会議は日本の中国侵略を国際法違反として警告を発した。
日本軍の行動については、国際社会の批判に聞く耳なしで中国の奥深く攻め入り相手の首都を陥落させたという全体像だけですでにドイツのポーランド侵攻と同様に、弁明の余地はない。
それは世界注視の中でおこなわれた侵犯行為であった。
「南京の暴虐」がまったくなかったとしても、責を免れるものでなく、日本の対支作戦は南京事件以前の問題として言語道断であり銘記されねばならぬことだ。
しかしながら国内では、虐殺の規模や法的解釈をめぐる諸々の、だが瑣末な議論が果てもなく続き、右派勢力の側では、まるでこの出来事さえ捏造だということにすれば第二次大戦での日本のすべての戦争犯罪を赦免できると言わんばかりの気迫で否定論を唱えるのが常態となっている。
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そうだよね、末端肥大というか。なんで日本の右翼って、南京大虐殺にこんなこだわるの? 南京のこと有耶無耶にすると、いいことあるわけ?
逆じゃな。有耶無耶にしてしまえそうなのが南京事件しかないから、かくもこだわると言ってよい。そこから皇軍全体の「名誉回復」の足がかりにする魂胆かもしれん。
第二次大戦で日本が潔白だと言い張っても無論のこと、世界からは相手にされん。あの時の日本の行動をたとえれば、ロンドンのピカデリー・サーカスのような広場で衆目の中、傷害や窃盗をはたらくのとおなじ、罪の否認なんて出来るもんじゃない。しかし――。
目撃した欧米人の少ない中国での南京攻防戦に範囲をかぎるならば、シラを切り通せるかもしれない。なにしろ当の被害者らは日本軍の包囲占領下で皆殺し状態だから、「カスターの最期」とおなじで生き延びて証言する者なんていやしない。死人に口なし、真相は不明にしておける。
1876年、先住民討伐の遠征で合衆国陸軍が大敗を喫したリトルビッグホーンの戦い。
カスター中佐が指揮する本隊(五個中隊)は一兵のこらず討ち死にしてしまったので、全滅の真相はいまだ判然としない。
つまり南京事件にかぎれば、真相が永遠にわからない状態なんですか? 右翼さんはそこにつけ込んで、「虐殺なんて嘘っぱち」と言ってるわけ?
「カスターの最期」の場合も、騎兵隊を打ち負かした先住民側に取材をおこない証言から全貌を再構成した猛者がおったがの。より近年の事件で規模の大きな「南京の暴虐」となると、日本兵の日記やメモ、陣中日誌等、虐殺や強姦が事実なのを裏付ける豊富な資料が残されており否定などできるものではない。
(続く)
証拠写真はどこまで信用できる?
これはネトウヨどもが頻りに引用、「日本兵と南京の市民はこんな仲良しだった。大虐殺なんかなかった証拠だ」と言いはる写真じゃ。 pic.twitter.com/wRVJP2QQ5y
もちろん具合の悪い場面は撮られても検閲で公表が禁じられた。
今でも、「大虐殺などなかった証拠」としてネット右翼がよく引用する一枚だ。
たとえば。この写真からでは、東京大空襲や原爆投下など米軍による残虐行為のあったことが信じられないだろう。
(南京事件をめぐる部分が長くなりそうなので、もっか別個のまとめ作成を目論んでいます)
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【付録/第二次大戦略年表】
第二次大戦の始まりから終わりまで、大事な出来事をならべた略年表です。でも、こんなこと言ってる人が作ったので、日時についての間違いは大目に見てあげてくださいね。 pic.twitter.com/UrQKGWuzAz
【1925年/大正十四年】
4月22日 治安維持法公布
【1931年/昭和六年】
9月18日 満州事変おこる
【1932年/昭和七年】
1月28日 第一次上海事変
3月1日 満州国建国宣言
5月15日 五・一五事件
【1933年/昭和八年】
1月30日 ヒトラー、ドイツの首相となる
3月27日 日本、国際連盟を脱退
10月14日 ドイツ、国際連盟を脱退
【1934年/昭和九年】
8月2日 ヒトラー首相、総統を兼任
【1935年/昭和十年】
1月12日 ドイツ、ザール地方の旧領土を回復
3月16日 ドイツ、ベルサイユ条約を破棄、再軍備宣言
10月2日 イタリア、エチオピアに侵入
【1936年/昭和十一年】
1月15日 日本、ロンドン軍縮条約を破棄
2月26日 二・二六事件
3月7日 ドイツ、ラインラントを併合
7月18日 スペインで内戦はじまる
8月1日 ベルリンでファシズム・オリンピック開催
11月25日 日独防共協定なる
12月12日 西安事件。蒋介石、共産党と手をにぎる
【1937年/昭和十二年】
4月26日 ドイツ空軍、スペインのゲルニカを爆撃
6月11日 スターリン、赤軍を粛清
7月7日 蘆溝橋事件。日中戦争はじまる
8月12日 第二次上海事変
9月22日 中国で抗日民族統一戦線なる
9月28日 国際連盟、中国への都市爆撃で日本を非難
10月5日 ルーズベルト大統領、日独伊の侵略国を念頭に、シカゴで「隔離演説」
11月6日 日独伊三国防共協定締結
11月 九カ国条約会議、日本の中国侵略を国際法違反として非難
12月13日 日本軍、南京を占領
【1938年/昭和十三年】
1月16日 日本、「国民政府を対手とせず」と声明
3月12日 ドイツ、オーストリアを併合
4月14日 日本軍、徐州攻略を開始
8月22日~10月27日 日本軍、武漢攻略作戦
9月30日 英仏独伊、ミュンヘン協定調印
11月20日 国民党政府、首都を重慶にうつす
12月 日本軍、重慶への爆撃開始
【1939年/昭和十四年】
2月16日 日本軍、海南島を占領
3月14日 ドイツ軍、チェコスロヴァキア占領
4月1日 スペイン内戦、フランコの勝利でおわる
4月7日 イタリア、アルバニア侵攻
5月12日(~9月15日) ノモンハン事件
8月22日 独ソ不可侵条約締結
9月1日 ドイツ軍、ポーランド侵入
9月3日 英仏、ドイツに宣戦布告
9月17日 ソ連軍もポーランド侵入
10月6日 ポーランド降伏
11月30日(~翌年3月12日) ソ連-フィンランド戦争
【1940年/昭和十五年】
3月 日本、傀儡の汪兆銘政権を中国に樹立
4月9日 ドイツ軍、デンマーク、ノルウェーに侵攻
5月5日 日本、国家総動員法施行
5月10日 ドイツ軍、フランスに進撃開始
5月26日~6月4日 英仏軍、ダンケルク撤退
6月10日 イタリア、英仏に宣戦
6月14日 ドイツ軍、パリ入城
6月22日 フランス降伏
7月10日 英国決戦(Battle of Britain)はじまる
9月 日本軍、仏印進駐
9月 イタリア軍、エジプト侵攻(失敗)
9月27日 日独伊三国軍事同盟調印
10月 イタリア軍、ギリシア侵攻(失敗)
11月11日 英空軍、タラント湾のイタリア艦隊爆撃
(真珠湾攻撃のモデルとなる)
【1941年/昭和十六年】
1月 山本五十六、真珠湾作戦の立案を指示
3月 アメリカで武器貸与法成立、「出兵なき戦争」の開始
4月6日 ドイツ軍、ユーゴスラビアとギリシアに侵攻
4月13日 日ソ中立条約締結
6月22日 ドイツ軍、ソ連侵攻
7月28日 日本軍、南部仏印進駐
8月1日 米国、日本を含む「全ての侵略国」への石油輸出を停止
8月9日~12日 米英首脳、大西洋会談
10月16日 近衛内閣総辞職、東条内閣成立
11月5日 対英米戦を閣議決定。日米交渉決裂の場合、武力発動を十二月初頭とする
11月26日 連合艦隊、千島列島からハワイに向け隠密裏に出撃
11月27日 ハル・ノート着電
12月6日 ソ連軍、モスクワで大反攻
12月8日 日本軍、英領マレーを宣戦なく攻撃。二時間後、真珠湾奇襲(現地時間12月7日)。
さらに一時間後、外交交渉打ち切りを伝えただけの文書が米国務省に届く。
日本、「開戦の詔勅」でようやく英米に宣戦布告
12月8日(現地時間) アメリカ、対日宣戦
12月11日 日本の要請を受けドイツとイタリア、アメリカに宣戦