テレビドラマ「水戸黄門」は、絶望系の物語
(邦画余話)




 「スパルタカス」「アラモ」「風と共に去りぬ」「ドクトル・ジバゴ」「タイタニック」……悲劇で終わるハリウッド資本の映画は少なくないですが、みんな、絶望をそのまま受け入れてよし、とはしてませんよね。強引にでも明日に希望をつなげて締めくくるというか(笑)。
 それは基本的に、アメリカの観客の好みです。
 同じ英語圏でもイギリス映画の悲劇系はもっとシビアな結末の描き方になりますが、それでも日本映画(とくに昔の日本映画)のように絶望を愛好し、美化する真似はしない。
 苦い現実を認識することで現実をより良くしようとの国民的姿勢が反映されたものです。
 日本映画の絶望系に見られる「ああ、世の中はこうなんだ〜、もうダメなんだ〜」とは断じて違う。

 ちなみに、テレビの「水戸黄門」は毎回ハッピーエンドですが、実は絶望系の物語。
 下々には絶対かなわない暴虐な悪代官や悪徳商人を、たまたま通りかかった黄門様の一行に懲らしめてもらったのに敬服し、みんなが土下座して終わる。
 希望の入り込む余地がないほどバカバカしい話。
 主人公が善良なジジイだからよかったけど、あれで水戸黄門が偏執的な連続殺人魔だったら、だれにも手の打ちようがありませんよね(笑)。
 だから、あの番組の底に流れている思想は、基本的に、奴隷制度の擁護論と変わらないんです。
 良い主人に仕えれば安泰だけど、残忍な主人のもとで働くことになったら殺されても文句は言えない。良い主人に仕えられればいいね。運が良ければいいね……。

 ともあれ、こうした日本映画が継承する暗い伝統、ホイチョイ流に外面だけ明るくしたって、すぐにはハリウッド映画と渡り合うほどの強い生命力を獲得できるもんじゃないって気がします。