日本映画に登場する変な日本人
(邦画余話)




 ひとつ、これだけは解決してもらいたいことがありますね。
 それは、日本人の描き方です。
 そう。日本人の描き方。
 日本映画というのは、これがまるでなっていません。
 昔、NHKで放映されたアメリカのTVドラマだったけど、太平洋戦争中、マンザナールに収容された日系人たちの物語(「愛と哀しみの旅路」ではない)を見て、新鮮な驚きを感じたことがあります。
 開眼したといっていいでしょう。

 カメラを、猫に向ければ猫として写り、犬に向ければ犬として写ります。
 当たり前ですよね。
 ところが、日本人がカメラを日本人に向けても、日本人にならないんです。
 なぜかわからないが、日本映画に出てくる日本人は、巷にある日本人とは別のものとして撮像される。
 それが、アメリカの映画人がアメリカの日系人を出演させてドラマを撮ったら、もっともありのままらしい日本人が写し出されることになった。
 まことに奇妙ですが、これは実感でした。
 以来、生理的リアリズムとは異なった「日本映画的な人間描写」(としか表現しようのない、現実から隔たった演出)への激しい拒絶感に取り憑かれてしまうこととなりました。

 どうして日本の映画やテレビでは、日本人をあのドラマのように自然体で描かないんだろう?
 どうして、やたらと気張って歩き回り、目をギョロつかせる日本人ばかりなんだろう?
 どうして、けたたましく嬌声を上げ、ふるえ声で台詞をしゃべる日本人ばかりなんだろう?
 そうではない、こっちこそ現実だと押しつけるように、すべての登場人物にそういう振り付けをほどこし、変な日本人として描いてしまうんだろう?
 どうして日本映画はそういう日本人の描き方しかできないんだろう?

 本当に、どうして?
 今に至るも、答えは出ていない気がします。
 日本の映像作家たちは、自分たちの社会から一部を隔離し、美しく着飾らせて描くことに情熱を傾けます。
 けれども、社会の様相をありのままにとらえながらドラマに取りこむという創造性のスリリングな部分での発揮では、みごとに世界から遅れを取っていると言わざるを得ないのです。