「異世界は衰退しました」
「沖先生、起きてください。先生!」 異世界が飛び込んできた。 唐突にではない。来る時刻は決まっている。 沖はその声で、朝だと知った。 しかも、九時過ぎじゃないか。 愛鈴(アイリン)が来たからにはそうなのだ。 合鍵は渡してある。そうでないと、まず沖をたたき起こす仕事ができないからだ。 今朝も彼女はためらいなく、雇い主へのサーヴィスを開始した。 机上に突っ伏していた沖の身を揺さぶり、耳元で加減なしに叫びたてる。 「先生! 起きないと、ゴキブリ捕まえて背中に入れますよ、先生!」 これでは起きずばなるまい。 沖は上体をそり返らせ、両手で虚空をつかむように、大きく伸びをした。 傍らには、普段着ながらもメイドのようにかしこまった姿勢で、アイリンが控えている。 見慣れた顔ではあるが、見飽きることがない。 朝の陽が差し込んだ部屋で光の粒子に包まれながら立ち働くアイリンの若々しさ、そのしなやかな身のこなし、生命力を内奥から発散させる瞳の輝きはいつ見ても新鮮だ。 アイリンはどこからともなくやって来た娘だ。 ある日、沖の家を訪ねてきて、愛読者だから弟子にしてもらいたいという。 「お給料はいりません。先生のため尽くしたいんです」 まるで安っぽい漫画のような関わりの求め方ではある。 アイリンは、このうえなく愛らしく、快活で、不平も吐かず、働き者なうえに気が利いた。 リアリズムを重んじる作家ならば、ここまで美点――男視点での長所――ばかりで成り立った女性など気恥ずかしくて登場させられまい。 そんな娘が自分のほうから登場してきたとあっては、受け入れる以外ないというものだ。 (アイリンに欠点がまるでないように見えたのは、沖がわざわざそれを探さなかったことも大きいが。) 彼女はまさしく、異世界から訪れた存在だった。 容姿はともかく、挙措はまるで日本人離れしている。 本人は台湾生まれと言ってるし、なるほどそういう雰囲気ではあるが実のところは怪しい。 まるで国際事情にうとい素人作家に、「親日国台湾」というネット上での風聞だけで造型されればこういうキャラが出来上がるといった感じなのだ。 違うところもあった。 彼女は別に、日本大好き外国人ではない。 特定の日本人をおだてることには関心がないようだ。 アイリンはようするに、日本びいきというより、沖びいきなのである。 とはいえ沖に、人の国籍の判別はできない。 だいたい、彼自身が出生地をよく間違われるのだ。 「日本語お上手ですね」 まあ、いい。 ようするにアイリンがどこの生まれだろうと、台湾でも韓国でもフィリピンでもブラジルでも、あるいはヴェトナムやネパールでも、沖はまったく気にしなかった。 いや、お給金は払うけど(ゴホン!)。 ただし若干のブラックな雇用主ぶりを発揮、アイリンには昼間だけ通ってもらい、アシスタントの名目で雑用を任せることにした。創作と関わりない、身の回りの世話だ。 最低賃金の提示にもかかわらず、彼女は喜んで引き受けてくれた。 掃除も、洗濯も、買出しも、料理も、そして後片付けまでみごとにこなすのだ。 おかげて、沖の家は見違えるほど綺麗になった。 沖自身も見違えるほどでなくとも、前よりはさっぱりした風体になった。 アイリンは変わらず、献身してくれる。 いまも彼女は、用意した熱いタオルを拡げて、沖の前に差し出す。 沖は至福の思いで、熱気むんむんのやわらかい布地に顔全体を包み込んで、まんべんなく擦り付けると、生き返ったようにフウーッと息をついた。 本心では、アイリンの豊かな胸に顔をうずめ、思う存分その若々しい魅力を満喫したかったが、性格がアレなために、師弟より親密な関係には踏み出せずにいるのだ。 今も、私的なことに触れるのを避けるように、話題を仕事に関わることだけに自分から限定してしまう。これでは、いつまでたっても関係が進展しないはずだ。 手の早い男からはもったいないと嘆息される状況に違いない。 「どうしても書けなくてね。寝込んじゃったんだ」 「お布団で寝込んでください。風邪ひきますよ」 「風邪ひかなくても寝込みたいんだよ。ラノベなんか書けって言われちゃあ」 「先生がラノベを? あんなにラノベの悪口ばっかり言ってた沖先生が?」 アイリンは、頓狂(とんきょう)な顔で、目をパチクリさせる。 「よく引き受けたものですね。書かせるほうも書かせるほうだけど」 「ラノベ作家が団体で失踪したらしい。なんでかはわからない。変なものばっかり書いてたから、集団性の精神疾患でも発現したのかな。あっはっは」 「いいことなんですか?」 アイリンは他人の不幸を笑う沖を咎めるような口ぶりながら、面白がっている。 「とんでもない。おかげでこの沖栄一が、穴埋めで苦労してるってわけさ」 沖には、ライトノベルの購読層ばかりか、あんなキワモノを珍重する出版業界全体が気に入らなかった。 「まったく、人材の無駄遣いもいいところだ。あいつらときたら、ケーキが出来ないんだからパンを食えばいいのに、子供のようにケーキ台にしがみついて離れない。やるに事欠き、凄腕のパン職人を連れてきてケーキの飾りをさせやがる」 「名言です」 アイリンはわが意を得たりという顔をした。沖ならこう例えてみせるのではと予感したとおりの言い方だったから。 「先生ってほんと、ライトノベルお嫌いね」 「嫌いどころか、天敵だよ。あんなものツー・ネットとおなじに日本語圏のモラルを蝕むだけ。ラノベが滅びるか日本文化が滅びるかだって、いつも言ってる」 ツー・ネットとは、悪名高い巨大掲示板。 頭のいかれた愛国者や差別狂、変質者の群がる巣窟だ。 規制を求める声には聞く耳なし、運営人は厚顔にも言論の自由を盾にして平常営業、実際にはツー・ネットこそを敵対意見を圧殺する言論テロ空間にあらしめている。 ネット文化の草創以来、日本社会におよぼした害ははかり知れない。 ラノベの批判ばかりする沖が、このツー・ネットのラノベ板でアンチとして晒され、「恥祭り(ちまつり)」と呼ばれる悪罵による集団リンチをこうむったのも一度や二度ではない。 沖の見るところ、ラノベの隆盛とツー・ネットの台頭とは奇妙に重なり合うところがあって、どちらも現実から逃避したがる層を相手に経営が成り立つところで共通しており、つまるところどちらも、けっして手を組めない相手なのだ。 「でも、名言は慎んで言わないと。ラノベの愛読者って砂の数ほどいるんでしょ? そんなこと公言したら、恨みを買いますよ」 沖は肩をすくめた。 「なんとでも言えだ。自分の作品が低評価なのは苦にならない。酷評にも耐えられる。ただね。自分の書いたのよりずっと拙劣なうえ、どこが面白いかさっぱりわからないのが売れまくり、チヤホヤされてると……こいつら全員敵だって思えてきて」 アイリンは屈託のない笑顔で、冗談めかした解決策を提案する。 「先生も開き直ればいいのに。割り切って、そういうヘタクソでつまらないのを書いてみたら?」 なるほど。 咄嗟(とっさ)にはいい考えだと思う。しかし……。 「平凡な奴が異世界に転生、有力者に見込まれて成り上がり、女にモテまくる話をか?」 アイリンは罪のない顔でこっくりとうなずくが。 恥があるなら無理というものだ。現に、徹夜でねばって一行も進まなかった。 彼女にも、沖がそんなもの書くわけないとわかりきっているのだ。 「先生なら、どんなもの書かせても平凡にはならないと思う」 「もしかしたら、そこが嫌われる理由かもしれない。よく言われるんだ。素直におさめればいいのに、あいつのは余計なひねりが多いって。筋運びでも、台詞でも」 「わたしは先生のそんなところ、大好き」 アイリンはリップを送ってくれるけど、それで本が売れたら世話がない。彼女のように沖を大好きになってくれる読者が少ないからこそ、ラノベなんぞ書かねばならないのだ。 沖は甲斐のない問答を打ち切り、シャワーを浴びにいく。 朝の日課だ。 熱い湯に全身を打たせながら思いめぐらす。 しかしアイリンと話すうちに、自分はつくづくライトノベルに不向きな作家なのだと実感できた。やっぱりこんな仕事断って、実入りが悪くとも書きたいものを書くべきなのかな。 さっぱりして戻ってくると、アイリンが朝食の支度を整えてくれている。 これも日課のようなもの。 「はい、先生。朝ごはん」 台所に引っ込んでたアイリンが、お盆をかかえてきた。 献立は何パターンかの日替わりみたいなものだが、今朝は、熱いココアに豆乳がけミューズリー。半熟卵。豆を添えた温野菜とバナナ。 だいたい、週のこの日の定番だ。 アイリンが来るまでは栄養管理なんてできなかった。 以前は、目玉焼きにハムかベーコンをつけた。多いときで六枚くらい焼いたのを、熱いコーヒーで流し込む。 それを彼女は自殺行為だと呆れてみせ、食生活を改めさせたのだ。 ベーコンを食べなくなってから体の調子がいい。腹も引っ込んだ。そういえば知人の一人は、カリカリに焦がしたベーコンの常食をやめられずにいたが、あっけなく大腸がんで殺られたっけな。 アイリンは命の恩人かもしれない。 食べ終えた頃合いで、電話が鳴った。 スマホではない、固定電話だ。 もちろん沖は携帯型を持っているが、アイリンが来てからはそれを隠し、家では固定型のみで応対するようになった。 最初にアイリンが受けてから、「先生、誰々からです」と取り次いでもらったほうが、リッチな身分になった気がするからだ。 今も、アイリンはすばやく受話器を受けた。 「先生。ペディア・ファクトリーの川上さんからです」 ラノベの代筆の依頼主である川上都貴子(かわかみ・ときこ)からだ。 「お仕事ははかどってますでしょうか?」 いや、それが……。 受話器を介してとはいえ、沖は逡巡した。 考え直して書かないことにしたとは言いづらい。 一旦は納得して請け負った仕事である。 相手は、こちらの才能を見込んで好条件を出してくれたし。 ローンだって完済しなければ。 だいいち稿料が入らなければ、アイリンの給料さえ払えない。 あの娘こそ、手放すわけにはいかない宝なのだ。 「実はですね……」 言いよどむ沖に対し、電話の向こうでは待ち受けていたように、すべてお見通しといった反応を返す。 「今までとは勝手が違って、何を書いたらいいのかわからない。筋書きすら思いつかなくて困ってる……ですか?」 図星すぎて、返事の言葉が出なかった。 川上都貴子は、患者を見慣れた医師のような物言いをする。 「ご心配には及びません。沖先生だけのお悩みではないので。代作を引き受けてもらった他の先生方みなさん、そうですから」 そうだったのか。 俺だけじゃなかった。 藤も、木村も、山崎も……みんなが苦労をしてるんだ。 考えたら、まともな作家がラノベなんぞを書かされてすんなり適合できるはずがない。書けないことこそまともな証拠と解すべきなのかも。 「ところで、沖先生」 川上都貴子はいきなり、急所を突いてきた。 「もしかして。たかがラノベなんかと侮ったりしてませんか?」 またまた図星なことを言う。 心の中を狙い撃ちされてるようだった。 「いえ……けっして……けっして、そんなことはないのですが……」 「言葉の端々にお気持ちがあらわれてます。こんなもの書かされて張り合いがないと感じてるのでは?」 まさにそうだったが、仕事をやる気がないと思われたくはない。 沖は、以前に児童向けの連載物をまかされて往生したときの言い訳を転用した。 「実は……これまで書いてきたものとくらべ総体的に低年齢層向きにしなければならず、そこで手こずっております」 (とはいえ児童文学なら、作劇のセオリーが通用させられる。ラノベの執筆で行き詰まった現状と比べ、はるかに楽だった) 「簡単すぎて書きづらいとお感じになるわけですね」 ふむふむという口ぶり。工場のラインで主任が部下に作業が遅いわけを問いただすかのようだ。 完全にマウントを取られてる。 仕事を引き受けた相手には、雇用主さまの身で対するという。 「それだといけません。特別な才能が必要な領域に挑むのだと意識を切り替え、気を引き締めてください」 都貴子の言葉は間違ってない。痛感させられたことだ。 ラノベを書くのに特別な才能が必要でなくて何だろうか。 たしかに矜持のある書き手にとって、葛藤も成長も教訓もいらないという条件のもとで一冊分の物語を構築しろとは力量を超える注文だ。 「はい……なにぶん不慣れなものですから。ライトノベルの仕様に慣れるまで今すこし、時間をもらえたらと……」 「あいにく、締め切りを外すわけにはいきません」 付け入る隙はない。ピシリとはね除けた。 「慣れるまでお時間が必要とのことですが。では……時間短縮のため、こうしてはどうでしょう」 気付いたが。川上都貴子は沖がどういう出方をしても、いくらでも次の手は考えてあるという応じ方をする。 それで結局、いいように操られてしまうのだ。 「こちらのほうで、読者に受けそうなプロットをいくつか用意します。その中からご自分に一番しっくりくるものを選んでくださるとよろしいかと」 やれやれ……。 何もかもわきまえた相手に、掌の上で踊らされてる。 もしかしたら。一線級のラノベ作家は全部こんな感じで、この女編集者の手駒にされていたのではなかろうか。 日本でもっとも多作なラノベ作家こそは川上都貴子なのかもしれない。 電話は終わった。 「アイリン、俺は打ち合わせに行ってくる。留守番たのんだぞ」 「ラノベの件、やっぱり引き受けちゃうんですか?」 アイリンは、釈然としない顔をしている。 沖が自分の前ではあんな強がったのと裏腹で、やすやすと女編集者の言いなりになったように見えたのだろう。 「生活かかってるからな。ただし……」 沖は、ぶれのある男だと思われたくなくて、自己のフォローを試みる。 「なるべく俺の主張を通すから。そうやって、少しずつでもライトノベルの流れを変えていく。できたら良野部軽(らのべ・けい)なんかの代筆じゃなく、一から沖栄一のオリジナルで勝負できないかと持ちかけるつもりだ」 いや。アイリンが相手なら、どんな立派なことだって言える。 そこは向こうでも見透かしてるらしい。 彼女は納得したような、意に染まないような、なんとも曖昧な物言いで応じた。 「期待してるから、頑張ってください」 アイリンの気のない返事に、自分への大なる失望を沖は感じ取った。 まるで、俺がラノベなんか書くのは裏切りだ、許さないと言わんばかりの念気がこもってる。 何とでも思えだ。 アイリンの身は気楽だ。若いんだから、仕事ならいくらでも見つかる。沖の世話なんかじゃなく、もっといい仕事が。 「いいか、アイリン。戯れでラノベの代筆なんて引き受けられるもんじゃない。理想を貫くのも大事だが、自分を殺さないぎりぎりの線で世の中と折り合わないと。これは、おまえを雇い続けられるかという財政上の課題でもあるんだ。俺に仕事が来なければ、おまえも仕事を失う。言ってみれば、おまえの命がかかってる」 「先生の命もね」 アイリンは何を思ってか、誰に聞かせるでもなくつぶやくような返事をした。 それが、どんな深い思いがこめられた言葉なのか沖にはわからなかったが。 |