しりょう たいせん 「霊能大戦」 ――死んだら、敵になる!―― 1 2 3 4 5 6 7
フット2
この災厄の性質はまったく特異なものだ。
突如あらわれた無数の死霊の群れが東海岸の全域で荒れ狂っている。
居合わせた人々によって現地の混乱ぶり、凄惨な被害の様子を伝える写真や動画がネット上であふれ返り、現実の出来事とわかりはしても。
肝心の死霊が可視化されていない。
カメラを向けても被写体になり得ぬらしく、テレビ中継にもYoutubeの動画にもまったく写らないのだ。
かくも東海岸一帯が未曾有のパニックに陥る中、死霊の姿を画像や音声というかたちで捉えた者は誰もいなかった!
どの視覚媒体にも、逃げまどい殺傷される人、人、人がひたすら映し出されるばかり。
「死霊の襲来」は現に歴史的恐慌をひき起こし目撃者も犠牲者も膨大数にのぼりながら、死霊そのものの存在を証拠立てる視聴覚情報が皆無に等しい有様だった。
いきおい確認が手間取り、対応は後ろ手に回った。
吸血コウモリや殺人蜂が大挙して攻め寄せたという騒ぎのほうが、ずっと速やかに適切な措置が講じられたに違いない。
そもそもの話。
ボストンに、ニューヨークに、フィラデルフィアに、ワシントンD.Cに、死霊の大群が襲いくるなど火星人に侵略されるよりもあり得ないことで、まったく想定外の事態だったから。
フットが住むこの町は中西部よりさらに西にあった。
まだ日の入り前で昼の世界にあった当地では、電波やネットはどうあれ、合衆国が前例のない脅威にさらされたという実感など抱きようもない。
店の中でもみんな、狐につままれた顔でテレビ画面の中での大騒ぎぶりに見入るのみだ。
しかし。
「死霊の襲撃」はフェイクどころか現実世界でどんどん大きなウェイトを占めてきた。
はじめのうち、現場からの驚愕と恐慌に満ちた報告に多くの者が嘲りで応じたものが、事態の深刻さが知れわたるにおよび揶揄する者はなりをひそめ、動揺が全米に拡がっていった。
すでに東部の諸州では軍隊が出動し、戒厳令が発動されていた。
ただしどちらの措置も、死霊の跳梁を食い止めるのにまったく役に立たなかった。
わかってきたことはある。
どの地域も日没とともに死霊の襲来にさらされたということだ。
免れ得たところはなかった。
しかも地球の自転によってもたらされる米大陸での夜の領域の増大とともに、死霊の群れはその活動範囲を拡げていった。
いまは昼間の領域にある土地も夜になれば死霊の脅威を受け入れることになろう。
「死霊の襲撃」の初期、全米各地の人々が何もわからず、なす術もない状態にあった段階でも、合衆国政府の対応は早かった。
理性を保つように、助け合うように、神に祈るように、そしてまだ死霊の脅威から未然の地域では備えるようにと、国民に呼びかけた。
わけても、合衆国大統領の行動は誰よりも迅速だ。
死霊の群れがついに首都を掠めるにおよび、即行でエアフォースワンに乗り込みワシントンから避難していったのだ。
何よりも幸いなのは、このあとに起きたことだ。
専用機は現職大統領になんら敬意を払わぬ死霊たちに襲われ、操縦士が殺されて墜落する事態となった。
多くの人は天を仰ぎ、神に祈りを捧げた。
「ありがとうございます。わが祖国は救われました」
死霊の襲撃という合衆国にとって未曾有の災厄が、それ以前には未曾有とされた別の災厄を葬り去ったのだから。
いや、喜ばしかったのはそこまでだ。
なんと!
死んだ大統領は……死んだはずの大統領は……自分も死霊と化して、アメリカ市民に襲いかかってきた!
「糞! なんて野郎だ。生きてる時だけじゃなく、くたばってからも国に災いもたらしやがる」
ともあれ。
これは、アメリカ合衆国だけでなく、中南米地域も巻き込んだ世界的現象だった。
各地からの報告を合わせれば、「死霊の襲撃」は、南北のアメリカ大陸を貫通する経線上(合衆国の東海岸一帯のほか、ちょうど南米でリマの住む村のあたりも含まれる)から一斉に始まったのだが、地球の自転にともなう夜の訪れともに西へ、西へと拡がっていき、なおも拡がりつつあった。
フットとキティのいる町も、日が沈めば死霊の襲撃にさらされる道理だ。
だからといって、ただちに逃げ出す人は少なく、大多数は「そんな馬鹿な」という認識のままに居すわり続けていた。
「悪霊どもめ、来るなら来やがれ。神に祈ってやる」
実際に、風説が広まっていた。
「神に祈れ。賛美歌を歌え。死霊なんて退散していく」
少なからぬ人々が夜が来るのを恐れるように、教会、寺院、モスクなど宗教施設に集いつつあった。
しかし神頼みは、効き目のある場合とまったくない場合とに分かれた。
すがる神ではなく、すがる人によって結果も違ってきた。
当の死霊たちは、とくに信心家を贔屓にしてくれるわけではなく、宗派の違いにも無頓着らしかったが。
† † †
「ねえ、フット。大事な話があるんだけど」
キティがいつになくしんみりした様子で、店外への同行をうながした。
深刻な件での相談事らしい。
ニューヨークにいる友達のスマートフォンの電池は切れたままなのだろうか。
フットとキティは、テレビの前でざわめいている常連たちと女将(おかみ)を尻目に、こっそりと仕事場を離れ階上へあがった。
階下から、客の問いかけを受けた女将(おかみ)のひときわ大きなガラ声が聞こえてくる。
「ここにも来ると思うか?」
「大丈夫だよ、教会に通ってれば。東部の連中って不信心者が多いだろ? バチが当たったのさ」
「おまえが教会に行くの見たことないけどな」
キティが話があるからと誘うのは、いつものあの場所だ。
彼女は店の屋根裏にベッドを置いて住み込んでいる。
その部屋までフットを招き入れた。
最初にキティにしたがって入ったとき彼女の身の振りがあまりに天然なこともあってフットは冷や汗をかいたものだが(こんなところ女将(おかみ)に見られたら、雷を落とされる)、実のところビビる必要はまるでなかった。
通路として通り抜けるだけなのだ。
さらに、そのあと。
出窓から身を乗りだし、屋根材の上に降り立つ。
屋根の傾斜を這うように頂(いただき)まで登っていく。
煉瓦造りの煙突に身をもたせるようにして腰をおろす。
そして、ゆるい傾斜にそって足を伸ばすと、みごとに決まった感じになる。
二人にとっての特別な空間であり憩いの場だった。
まずロケーションが絶好。
大空のもと、町全体が視界に収められる。天気の良い日には隣りの州境まで見わたせるほどだ。
暇なときキティは、ここで弾き語りの練習をする。
思うほど喧しがられないし、こういうところで歌うと舞台度胸もつくという。
気をゆるめると滑り落ちかねない際どさがいいらしい。
往来からは店の看板のせいで死角になっていて、立ち上がらなければ目立つこともない。
いつからか彼女は、フットを傍らに座らせるようになった。
そうしてデュエットの相手をさせたり、自作曲を披露して感想を求めたりする。
キティの前ではフットはまるっきりデクノボウなので、はべらせるのに都合がよい相手なのだろう。
二人だけになって隣りあうと、彼女は沈黙を破った。
切り出し方はいつも通り、直入だ。
「ナッシュヴィルから引き合いがきたのよ」
ナッシュヴィル……数多の音楽会社がひしめく、カントリー音楽の聖地。
「そりゃ凄い! おまえもいよいよ……」
「残念でした! お隣りのブロンコシティのナッシュヴィルって名前のお店」
キティは途端に、陽気な調子に変わった。
抑えていたのが堰を切ったように、興奮した口ぶりでまくし立てる。
昼間に感じた喜びを誰かに話したくても話せぬままに持ち越していたらしい。
「大きなところで、音響設計のちゃんとしたステージがあって、お客もここより何倍も来るそうよ。しかも接客なんかしないで、ずっと歌ってればいいんだって。それで報酬が、報酬がなんとこの店の三倍! 凄いでしょ?」
なんてこった。
一日のうちにサプライズが二度も起きやがった。
俺とキティで別々に。
でもキティの身に起きたことのほうが、ずっと現実的だ。
「決めたのか?」
彼女は目を輝かせながら、うん、うんとうなずいた。
「ほんとに凄いでしょ? でもね……」
キティは拍子をとるように首を横に揺らしながら、納得できないという顔で夕暮れの空を仰いだ。
「もうすぐ、世界が終わっちゃう。ほんとうに残念」
「ニューヨークやワシントンは大混乱。アトランタにシカゴも……被災地が、どんどん増えてきてる。どこも、日が暮れたとたんに死霊どもがやって来たそうよ」
「この町はたぶん、大丈夫だ」
「どうして、わかるの?」
どうしてって……。
今日は、いろいろ変なことが起こりすぎた。
これ以上、厄事が重なってたまるもんか。
「人が大勢ひしめく都会が狙われるんだ。こんなド田舎までわざわざ襲いに来ないさ」
「でもGoogleで検索すると……アパラチアの山小屋も大平原(プレイリー)の一軒家も容赦されてない。人がいるところはどこも危ない感じ。死霊たちって、人間はすべて敵で、皆殺しにしたいんじゃないかしら」
たしかにキティのほうが、仕入れた情報は豊富なようだ。
「死んだら、死霊になるそうよ」
何を思ったのかキティは、両手で脅しつけるような仕草をした。
「死霊に殺されると、殺された人の魂もまた死霊になってしまう。それで生きてる人を襲うんだって。元恋人でも、血のつながった親族でも容赦なし。どんな立派な人でも恐ろしい存在に変わるっていうけど。死霊たちはきっと、仲間を増やして、この世界を死霊だらけにしたいのよ」
馬鹿なこと言うな、キティ。
死霊がどれだけ仲間を増やそうと、この世界は絶対に死霊の仲間にならないぞ。
フットには自分も世界の一員という心意気のほかに、キティの意見に反駁する根拠は何もなかったが。
いきなり。
キティは襲いかかるようにして、フットに抱きついた。
キティのほうがフットを押し倒す格好である。
フットは仰天し身を倒されながらも、相手のしなやかで弾力のある身を抱き返していた。
キティはさらに、あおむけになったフットの身に馬乗りになって覆いかぶさり、口づけを挑んだ。
フットがいつかこうしたいと思っていたことが、キティから仕掛けられるかたちで身に起きた。
フットの無骨な抱擁のやり方を完璧に補うほど彼女の誘導は巧みだった。
フットみたいな図体がでかいだけでこういうことでの初心者を扱うのはお手のものなのかもしれない。
「あたしが知らないと思った?」
キティは荒い息遣いで、挑むように相手の目を見据える。
「あんたの考えることなんか、何だってお見通し。あたしがビルからの声援に投げキスで応えたときのあんたの顔。あたしがマットと抱き合って踊ってたときのあんたの顔。それから、ハンクと連れ立って店を出たときだって……本音が顔に書いてあるのに、心の中で隠し通してるって態度でいるんだから。ほんと、馬鹿まるだし。いままで会った男の中でいちばんの馬鹿」
いやはや。こんな言い方で愛を告白される男も、そうはいるもんじゃない。
「キティ……ここじゃ……町中から丸見えだろ」
フットは、おぼつかなげに口を開いた。
「あら。まもなく世界が終わるのに、何を隠したいのかしら? ここでやっちゃいましょう。最高のスリルだわ。もう、誰に見られてもかまわない」
キティはおそろしいまでに開放的だ。
「でも……そろそろ混む時間帯だ。店に戻らないと、女将(おかみ)がうるさい」
相手はフットにしがみついて動こうとしない。
「おまけに、サービスデーだぞ。客が殺到して、店がパンクするほど膨らむ」
「死霊も殺到してくるんでしょ。商売になると思う?」
たしかに、キティの見通しのほうが現実的だった。
死霊の嵐に町が蹂躙されようというとき、わざわざこんな店まで最後になるかもしれない食事を摂りにくる者はいない。
キティは手でかざすように、眼下の光景を示してみせた。
「ほら。町中、アパッチが攻めてきたような大騒ぎ。昼も夜も眠ってるようだったのに」
実際、町の通りは恐ろしいまでに騒々しくなっている。
誰もが、それぞれのやり方で死霊の来襲に備えつつあった。
すでに町民の多くは、家族ぐるみで教会に避難したり、あるいは家にこもって神に祈ったり、さらには町を捨て西のほうへ落ち延びたりといった按配だ。
店の中でも。
女将(おかみ)と行き場のない何人かの常連――相方に死なれるか逃げられるか、ずっと独り身でいる高年者ばかりだが――とで寄り合って、天に祈りを捧げようとしている。
間近に迫った死霊の襲撃を、居合わせた面々で神に祈って迎え撃とうというわけで、その予行演習だ。
「エックハート、祈祷をリードして。あんた、聖歌隊にいたんでしょ?」
「よし、きた」
いかにも、エックハートは良い声をしていた。
「天に召します我らの神よ。願わくば御名の尊ばれんことを、御国が来たりますように、御旨が天におこなわれるごとく……ヒック!……地にもおこなわれますよう……それと……あとは……えーと……畜生(ダム)! 祈り方を忘れちまった」
女将(おかみ)が神妙さを保ったまま嘆息する。
「誰か、バイブル持ってきて」
屋根の上では。
「俺たちも逃げないと。こんなところじゃ、死霊が来たら真っ先に殺られちまう」
「逃げる? どこへ? ネットに出回った情報をまとめるとね。死霊って、家の中はもちろん、車でも地下シェルターでも、どこにでも入り込んでくるそうよ。銃で撃っても効かないし、祈っても無駄。狙われたらおしまいですって。だから……どこにいても、おなじ」
キティの奴、世の終わりまで俺と屋根の上にとどまりたいのか。
誰でも最後の時は家族と過ごすものだろう。
ところが彼女、親族の安否を気遣う気配もない。
「キティ。聞かずにきたけど……家族は?」
「どこかにいるでしょうけど、どこにいるかはわからない。未練もないし」
まるで、他人事について語るような返事をする。
「ジャージーシティで生まれて、捨てられた猫みたいに、いろんな場所を流れ歩いてきたけど……人生で最後の男があんただなんて」
「不満か?」
「満足だわ。いよいよ来る審判の日に、ドのついたデクノボウにこんないい女を抱かせてやれるんだから」
そう言いつつキティはフットの腰を抱きかかえ、局部に顔を埋めるように頬ずりする。
もちろんフットのものはびんびんに硬直している。
「あたしってたぶん、天国に行ける」
なんて、世の中を達観した口ぶりだろう。
キティはまったくすれたところがなく、どうかすると十代の少女に見えるほど初々しいのに。
フットは思う。
こいつには自分ってものがある。
何も持たないようでいて、自分自身という何より価値ある資産を神から授かってるんだ。
かたや、俺のほうは?
頼れる家族がないのはキティとおなじ。
五歳のとき、お袋は俺を親父に押し付け、男と逃げた。
親父は破滅的な飲んだくれで、若死にして遺したのはトレイラーハウス一台。
資産といったら、それだけじゃないか。
ほんとうに、俺には何がある?
そう、こいつだ。
キティ、おまえが俺のすべて。
世界のどんなものより尊い宝。
失ってたまるもんか。
「天国だって? どこにも行くな、キティ」
フットは、自分の局部の上に覆いかぶさるように突っ伏したキティの頭を抱きかかえ、さらに強く押し当てるようにぎゅーっと締め付けた。
ここが、おまえの居場所だ。
キティはそのままあえぐように息を吸い込んでいたが。
やがてフットの腕をすり抜けるようにして上気した可愛い顔を上げ、
「フット……あんたみたいなドジは死んだほうがいいって思ったことあるけど……ほんとうに死なれちゃったら、あたし困る」
彼女はさらに、ズボンのジッパーを引き下ろした。
「おい……やめろ……キティ……」
キティはやめない。
フットも拒みはしない。
キティは、やさしくつまみあげたフットの剥きだしのジュニアに吸着させた唇をリズミカルに上下させていく。
「幸せ?」
フットは大きく息をあえがせて返答にした。
「死霊ってまず知り合いから襲いはじめるらしいのよ。あんたが幽鬼みたいな顔で迫ってきたらと思うと、ゾッとしないもの。でもさ、そうなったときは……ならないと思うけど、なっちゃったときは……まず女将(おかみ)さんから先に襲ってね。あたし、その隙に逃げるから。ふふふ」
フットはもう、爆発寸前だった。
そのあと短い間に、色々あった。
一息ついて寝そべったままのフットがなにげに、彼方の地平に目をやると――。
「見ろよ、キティ」
フットが東の方角に異変を認める反応を示す。
まだ日の入り前なのに。いよいよなの?
キティは覚悟を決めたように、フットの身にしがみつく。
「やっぱりサービスデーだな。客があんなに押し寄せてきた」
地平の彼方から、まさに雲霞のごとき車の群れが、砂塵を巻き上げるようにしてこっちへ向かってくる。
あまりにも車の数が多すぎて一部は道路から外れた荒地を走り、群れを横方向に膨れあがらせながら。
キティは顔を上げ、ようやく外界への反応を示した。
見わたせば、西の方角でも何かが。
「見て、フット。あっちからも」
西からは軍隊だろうか、おびただしい車輌の列が整然としたかたちで直進してくる。
両方向で、秩序と混沌の好対照のように見える。
キティとフットの見た光景は、全米で起きていることの縮図だった。
国全体を俯瞰して眺めれば、軍隊は死霊の来襲に備えて東へと移動し、一部の身の軽い人たちは夕陽に追われるように、西へと逃げていく。
どちらも、夜の前に、死霊の群れの前に、無駄な行動と言うしかないが。
逃れるのは不可能だし、対人用の殺傷兵器では太刀打ちできない相手なのだ。
それでも逃げねばならないし、立ち向かわねばならなかった。
やがて。
東へ向かう州兵と西へ逃げる避難者の群れとは町を貫いて走る道路でぶつかり合い、激しくごった返し、解消不能の渋滞をひき起こした。
これほど大勢の人が押し寄せたのは、町の歴史始まって以来というほどの喧騒ぶりだ。
やがて混乱は罵りあいから大喧嘩へと発展していった。
店の中。
表の通りをぎっしりと埋めつくした車輌の隙間で入り乱れるように、人間同士の大がかりなつかみ合いが始まったのに驚き入る常連たち。
「あれあれあれ。喧嘩はじめやがった」
「迷惑な連中だね。遠くから押しかけてさ、わざわざ店の前で殴り合わなくてもいいじゃないか」
言ってる間にも、騒ぎはどんどん拡がっていく。
死霊の来襲どころではない。
「やだ。中まで押し入ってきそう」
「そんときゃ、フットの出番だ。あいつなら、十人が相手でもつまみ出してくれるさ」
フットの名を聞いて女将はようやく、欠員が二名いることに気付いたらしい。
「そういえば、フットどうしたの? キティは? 二人とも、逃げちゃったのかしら?」
「フットは知らねえが、キティなら上にいるぜ」
エックハートが、天井を見上げる目つきでニヤリとした。
「なんで、わかるのさ?」
「ほれ。聞こえるだろ、歌声が?」
たしかに聴こえる。
ギターの響きと歌声が。
キティだ。
彼女が、みんなに聴こえるよう、屋根の上で立ち上がり、弾き語っている。
争いをやめ、たがいにいたわり合ってと訴えるように。
たいへんな度胸の良さだと感服するしかない。
だいたい、歌いだすとキティは人格が変わるのだ。
『アメリカ・ザ・ビューティフル』『ゴッド・ブレス・アメリカ』『わが祖国』……夕陽を背にした若い娘によって歌われるそれらの曲は、気の荒んだ人々を癒し、たがいにアメリカ人であることを思い起こさせた。
(曲名をクリックすれば、どんな曲かがわかります)
いさかいがすべて鎮まったというわけではなかったが、キティの声が届く範囲から、人々は喧嘩をやめ、歌に聞き惚れ、喝采で応え、自分も唱和し、しだいに波が拡がるように壮大な斉唱へとかたちをなしていく。
彼女が『アメイジング・グレース』を歌いだしたときには、日没前の空に何百もの声が響きあうまでに盛り上がった。
非常時のときほど、人々は単純な動機でまとまるという見本だった。
そうして、その場のすべての人が心の安らぎを取り戻し、同胞への思いやりを共有するかと思われたとき……。
日が沈んだ。
死霊の大群が襲ってきた。
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