驚くことか。ヴェトナムの報道写真でこういうのをさんざん見せられたじゃろ。同じ真似を日本兵相手にやっとっただけだ。 pic.twitter.com/UZPo9n0E8r
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
連合軍側による日本兵への虐殺や虐待はかなり広範囲でおこなわれていた。
太平洋戦争より前のインディアン戦争と米比戦争、戦後のヴェトナム戦争での米軍の
行状を合わせ見れば、戦時中にアメリカ兵から日本兵がどう扱われたかの推拠となりえよう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「鬼畜米英」って本当なんだから。白人どもには日本人は黄色い猿で、人間じゃなかったんだよ。無差別爆撃、捕虜はとらずに殺す、女は犯す……自分らが正義だから国際法なんて糞くらえで、どんな非道い真似もやりたい放題だったんだ。
日本の戦争犯罪を見つめるのが日本人にまかされてるように、アメリカの戦争犯罪を見つめるのはアメリカ人の仕事だ。むろん外国からせかされてじゃない、アメリカ自身のためにやる。
アメリカ合衆国は過去、奴隷貿易の件で謝罪した。先住民の迫害で謝罪した。日系人の隔離で謝罪した。歴史上の落ち度を認め続けてきた。それでアメリカが嫌いになったアメリカ人はいない。逆に、世界中から移民が押し寄せてくる。
日本人はね、傷つきやすいんです。アメリカ人みたいに、先祖が悪事をやったと知りながら平然としてるほど鈍感じゃないんです(きっぱり pic.twitter.com/ErDd9iK54a
自分の国の歴史が、一点の汚れもない立派なものでないとダメなの。謝罪だ、反省だと自虐史ばかり教えられたら、立派な日本人に育つことが出来ないの。そういう世界一潔癖な国民性なんです。
日米映画の「歴史戦」
HBOテレビシリーズ『ザ・パシフィック』より。
ニコニコ動画にアップされた米軍による日本兵虐待場面。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
『プライベート・ライアン』、『シン・レッド・ライン』、『父親たちの星条旗』、そしてTV大作『バンド・オブ・ブラザース』や『ザ・パシフィック』……近年のハリウッド映画で米兵が敵側の人間を虐待的に扱う場面が多いのは、逆にアメリカ社会の進歩を示すものだろう。
敵側をどう描くかという次元をすでに超え、当のアメリカ兵自身を、これまでのような理想化された姿ではない、より人間としてのナマのかたちで映し出せるようになった、すなわちアメリカ自身の偏見と差別意識を直視できるまでに成長した証なのだ。
かたやの日本映画はどうか?
日本の戦争映画といえばかつては、「敵の姿を見せず、自分側の被害や苦闘ばかり描かれる」という海外での批評があったほどだが。
いまや自分側の苦闘どころか、「潔白な日本」を訴えることで躍起になっているのである。
実際のところ、わが国の極右系文化人ときたら、「皇軍はそんな酷い軍隊ではない。それどころか世界唯一立派な軍隊だ」と言いふらすことで汲々とする有様で、自己評価についておよそ客観的な視点の入り込む余地がない。
それどころか、アメリカ映画から米軍が日本兵を虐殺する場面を引用、「米軍の残虐行為の証拠だ、アメリカ自身で認めてる」などど喧伝することで日本側の罪を薄めようとさえする。
まこと、恥を知らぬにもほどがあろう。
あくまで実相を認められない日本の国粋主義者と、自国民の暗部をも直視する勇気をもった米国のリベラル派。
どちらが勝っているかは第二次大戦時とおなじことで、だれの目にもあきらかだろう。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
【東京裁判って】
東京裁判って結局、ほとんどの日本人が他人事としか感じてないんだよね。
ほんと、自分の問題とは捉えてない。日本の戦争犯罪が裁かれてるのに、みんな傍聴席にいる感じ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
茶番でしかなかったニュールンベルグと東京の法廷について、いまさら語っても仕方があるまい。
戦勝国の裁判官は、わずか数千人を見せしめとして処すことで、幾千万もの命が失われた世界的殺戮の主動力だったドイツや日本の国民一人一人に罪(というより、自身の戦争への自発性をもった関わり)を自覚させる重要な機会を奪い取ってしまったのだ。
実際、後代の目からはなんとも納得できない判決としか言いようがないだろう。
「夜と霧」ひとつを取り上げても、何百万ものユダヤ人を葬り去った計画的虐殺の責がわずか一握りのナチ高官に帰するとは不可解なことである。
あれほど巨大な規模の犯罪が推進されるには、悪事を悪事と思わず実行できる土壌がなければならず、そのおなじ土壌がヒトラーを台頭させたはずなのだ。
そうしたことは顧みられず、戦勝国は二つの敗戦国から生け贄を選び出しただけで、ドイツと日本の国民すべてを実行犯として裁かず、責任を負わせようとはしなかった。
そこまでやれば、統治能力の上限を超えると知っていたからに違いない。
そう。裁けなかったのだ。
戦勝国は、相手方の国民のうち、ごく少数にすべての戦犯行為の責を負わせるというトリックによって残り大多数を自分らの側に引き入れる最後の大作戦を成功させた。
第二次世界大戦の正義とは力で実現できる範囲の正義でしかなかったことになるだろう。
二つの大法廷の執行力をもってしても、「悪人に権力を握らせると、民衆は悲惨な目に遇わされる」という童話的認識をついに変えさせることはできなかったのだから。
余波は今日にまで及ぶことになった。
http://www.geocities.jp/ondorion/war/world-war.html#court
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
日本人の頭では、国と自分たちが分離しておるな。国の管理に自分は責任を持たず、特定の連中にまかせきり。あくまで受け身の立場でいようとする。ただ「御上」に指図され奉仕し、褒美にあずかるだけの存在。さすれば暮らしは安泰との夢に耽る。
さよう。終戦もただ「御上」が軍部からGHQへと変わっただけのこと、隷属する身はもとのままじゃ。だからこそ東京裁判で誰がどう裁かれようが、自分らとは別の世界の出来事でしかない。むしろ「東京裁判体制」は国民としての戦争への関与を免罪する格好の仕組みじゃった。
不思議なんですが。ネット右翼はそれと逆に、東京裁判は捏造で日本は無罪だと必死になって騒いでますけど。まるで我が身が冤罪で裁かれたかのように。
ネトウヨどものは、国民意識などと呼べる代物ではない。自分たちの御主人様は罪人なんかじゃない、濡れ衣きせられただけ、実際はこんな立派だった、俺らはそういう偉大な御方に従ったんだと自慢したいだけじゃ。すなわち主(あるじ)と僕(しもべ)が同体であり、奴隷根性の域を出ておらん。
では。東京裁判やニュールンベルグ裁判に敗戦国の民を手なずける以外の効果がなかったかといえば、そうとも言い切れん。この世界的な経験は、のちの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷およびルワンダ国際戦犯法廷、そして常設となった国際刑事裁判所(ICC)にかたちを変え生かされておるからじゃ。